2009年12月31日木曜日

Venemaa !!




ロシア旅行より帰国しました。

視野の狭い僕の身に、あまりにもたくさんの新しいことが降りかかったため、10日間の長旅を終えて心身疲労困憊のため、そして、1月3日から始まる中欧旅行までの間にすることがたくさんあるため、この旅行を上手にこのブログにまとめるのはとても難しいのですが、詳細よりも旅行全体を総括して感じたこと、新たな発見・出逢い、そういったものに焦点を当て、いくつかの項目に分けて書いてみようと思います。

-Language Barrier-
朝7時に到着した僕らを出迎えてくれたものは吹雪。出鼻から苦難の予感。それを証明するかのように、そしてロシア人について話をすると必ず言われるように、誰一人としてまともに英語を話さない。旅行のパートナー Daniel も僕もロシア語はいくつか単語を知っているだけ、露英辞書もない。最初に見つけた英語を話せるロシア人は駅でSIMカードを売っている50代ぐらいの男性。これは偶然だと思いますが、この旅行中に出会った英語をある程度話せる人の半数は若者ではなく、中年かお年寄りの人々(笑) 列車やバスの切符を買う際にこちらがロシア語をまともに話せず意思疎通ができないと分かるといきなり逆切れしだすオバサン切符販売員たち。単純に英語の能力という観点からだけ見てみれば、状況は絶望的だと思いました(笑)

-People-
そんな言語の壁の存在にも関わらず、そして、僕の持っていた偏見とは正反対に、ロシア人はとても親切。人種差別、外国人に対する襲撃事件、汚職まみれの警官、ネガティヴな情報ばかりを心配していた僕には新鮮な驚きでした。親切と言っても、誰もがニコニコ笑顔で接してくれるというわけではありませんが、外国人とみて話すのを止めたり、態度を変えたり、しかとされたりするということは滅多にありませんでした。むしろ向こうから積極的に話しかけて来る人も多く、極寒の地に住む人々の心の温もりを確かに感じました。一つ聞いた話ですが、サンクトペテルブルクが文化的首都で人々もより寛大であるのに対し、経済的首都であるモスクワの住民は生きるため、金を稼ぐためにより攻撃的でピリピリした空気を持っているらしいです。真偽のほどは来年確かめてみたいと思います。

-St. Petersburg-
ピョートル大帝治下の1703年に建設が始まった帝政ロシア期の首都。「ヨーロッパへの窓」と言われるだけあって街には西欧風の豪奢で巨大な建築があふれ、ロマノフ王朝の宮廷文化の程を感じる。街を流れるネバ川は凍っていて、海から吹く風が身に凍みる。エルミタージュ美術館、王立科学アカデミーなど、文化財産がたくさん保存された場所を訪れたが、いずれも長旅の疲れとロシアの冬の寒さに体力を奪われ、睡魔に襲われつつ見て回ったのでよく覚えていない。とても綺麗な街だったけど、冬の寒さと陰鬱さに華やかさが奪われてしまっていたことと、その後の北極圏での思い出のために、ペテルブルクでの記憶はうっすらとしかありません。来夏にまた来ます。
-On train-
人生初の海外列車の旅。駅では写真撮影が禁じられていることを知っていながら隠れてカメラのシャッターを切りまくる Daniel にオロオロしつつ乗車。車両の外部は雪で覆われ凍りついている。車内は日本のブルートレインのように4つの寝台が取り付けられたコンパートメントが並び、狭い通路とそれに沿ってさらに2つの寝台が通路脇にある。この旅行を通して最も印象深かった記憶の一つは列車でのロシア人との交流。年の暮れに北極圏へ進路をとる外国人旅行者に注意が注がれないわけもなく、お互いの出身国、行き先などを話し始め、ペテルブルクで買ったウォッカを一緒に飲む。同じ年ごろの若い女性や、中年の男性、60, 70代ぐらいのおばあさんや、はたまたソ連時代のスカイダイビングの代表選手だった女性まで、いろんな人と出逢い、言葉を交わすことができました。ロシア人の温かさに触れたことはこの旅で得た財産の一つです。

-Apatity and Kirovsk-
列車で辿り着いた最初の北極圏の街。コラ半島の中心に位置し、豊富な鉱山資源で有名な地。特に Kirovsk にある Khibny山塊はスキーリゾートで有名な街だそうですが、僕らが訪れたところは鉱石博物館、未完成の駅舎、廃工場(笑) 街の人には皆「スキーしに来たのか」と尋ねられましたが、上記の目的地を伝えると彼らの顔には苦笑いが浮かぶ。それを見るたびに、「あぁ、"冬"に"北極圏"へ"Daniel"と来るのは間違いだったな」と思わずにはいられなかった。それはともかく、「平べったい国エストニア」に4カ月住んで起伏のない地形に目が慣れてしまった僕にとって、降雪と雲で頂上の視界を覆われていたとしても、本当の「山」を見れたことは救いでございました。最後に Apatity での最大の思い出は、26日朝8:13発の列車へ宿からダッシュしたこと。バスケ部を引退して2年以上、まともな運動から遠ざかっている軟弱児の体にとって、重い荷物を背負ってのあの「駆け込み乗車」は北極圏の寒さ以上に身に堪えた。

-Murmansk-
北極圏、最大の街であると同時に唯一の不凍港を持つ。港に並んだたくさんの船と積み荷を運び出す大型クレーン、両湾岸からなだらかに伸びる丘とそれに沿って並び立つソビエト的な集団マンション。丘の上には第二次世界大戦でドイツ軍に対して街を守るため戦った名もなきソ連兵への記念碑が建つ。 Daniel から旅行の話を聞いたときは、ロシア軍隊の閉鎖地区だの原子力潜水艦だの物騒な単語しか彼の口からは出て来ず、正直、Murmansk には行きたくなかった僕ですが、すっかりこの街が好きになってしまいました。雪原の大地、轟々と機械音の唸る港、11時に夜が白み始め、その明るさのまま太陽を見ることなく、昼の3時に夜が来る北極圏の冬、-28度の凍てつく、澄み切った夜空に浮かぶ神秘的に美しい半月。全てが同じで退屈で陰鬱なソビエト的な建築もこの環境においては美しく見えてしまう。

-Couchsurfing-
今回の旅行では全ての宿泊地で couchsurfing をしました。St. Petersburg, Apatity, Murmanskの3つの街で宿泊させてもらいましたが、最も印象深いのは Murmansk でのホスト、Katya とその友人の Andrew。最初の晩は、サイコロ版ポーカー、ウォッカの乾杯、シナモン一気食いで大いに盛り上がり、Murmansk での最後の晩は、車で街のあらゆるところに連れて行ってくれた。ハイライトはスキー場の丘から見た、眩く輝く満月が作り出した「優しい光の輪」とその光に答えて控えめに青白く反応する大地の白。その場にいる誰もが言葉を失い、ただただ、北の大地が生み出した「神秘の光」に心を委ねていた。オーロラを見たいと思っていたが、その期待を凌ぐ、美しく、素朴で、謙虚な光を目にした。そしてその場へ僕らを導いてくれた2人のロシア人の心の火。そしてもちろん、彼らに出逢えたのはこの couchsurfing というコミュニティーがあってこそだということは否定できない。文化と文化、人と人との垣根を越えて、お互いの間に存在する偏見を狭めていく。世界を知り、己を知り、人生をより楽しく可笑しくしていくことができる。そういう可能性を持ったこのシステムをより多くの人に是非1度は試してもらいたいなと思います。

-Daniel-
最後に旅のパートナー Daniel について。この旅行中、彼の危険を顧みない行動、異なる感性、文化の違い、意見の衝突と僕の未熟さのため、幾度か冷戦関係に陥りました。10日間食事から宿まで、ありとあらゆる生活を共にしたため、食文化なり、行動作法なり、様々な文化的側面の違いがはっきりと表れた結果による、想像以上のストレス。彼の放浪者の性分が原因であろう、あらゆるものの値段に文句を付けることで、お互いに共同品や旅先の妥協点が見つからないこと。英単語の発音に逐一文句を付けること(RとLの発音の違いなんて分からん!)。大晦日までに帰る予定を急に変更しようとすること。いろんな面でストレスを感じ、道中、彼をどれだけ憎たらしく感じ、この旅の計画に頷いてしまったことを後悔したことか。だが、そう感じてはいつつも、Daniel が小さな面で僕への気配りを忘れないこと、旅を「2人」で楽しもうと努力していること、そして放浪者のあきれるまでの豪快さと底なしの明るさ、そういう姿に自分の矮小さ未熟さを恥じ、次第に彼のことを心から信頼できるようになった。18歳から1人でヨーロッパを旅し始め、モルドヴァでは2回逮捕されたこともあるという根っからの旅好きである彼と旅をしたことで、いろいろな「旅の知恵」も学び取ることができた。最後の最後まで彼にはハラハラさせられ、幾度となく不仲⇔仲直りを繰り返したが、25歳の兄貴分に鍛えてもらったことで、1月のヨーロッパ旅行を更に充実したものにできるかもしれません。

-Other-
フィンランドには行きませんでした。何でって?Murmansk からフィンランドの Rovaniemi までのバスが高いと Daniel が文句を付けたから(笑)それと、愚かなことに、僕が Apatity でのホスト Dmitry の家に携帯、カメラの充電器を置き忘れてきたために、来た道をペテルブルクへ引き返さなければならなかったのです。朝5:25分、クズ日本人のために Apatity駅までわざわざ届けに来てくれた Dmitry 、本当にありがとう。頭が上がりません。充電器が無かったために、Murmansk でのハイライトを写真に収めることは叶いませんでした。

以上、なんだかんだ、だいぶ長々と書きましたが、僕が強調しておきたいことは街の描写よりも、新たな人との出逢い、ロシア人に対する認識の変化、そして Daniel との友情です。

あと4時間ほどで年の明ける大晦日のエストニアより。

2009年12月20日日曜日

Sõit Venemaale ja Soomesse

気付いたらもう12月20日。 ロシア・フィンランド旅行の始まりの日。

22:45の夜行バスに乗ってサンクトペテルブルクへ。帝政ロシア期の首都で3日間過ごした後、夜行列車で針路を北の氷の大地へ。北極圏の街キロフスク、そして北極圏最大の街、ムルマンスクへ。ムルマンスクからバスに乗って、フィンランドのラップランドの首都、サンタクロース村のあるロヴァニエミへ。その後、ヘルシンキ、タリンへと渡り、大晦日の夜はタルトゥのRaatuse dormitoryにて新年を迎えます。

一緒に行くハンガリー人の Daniel に確認したけど、やはり彼はロシア語は喋れない。そして僕も喋れない。「直行、ロシア語勉強してたんだろ?」彼は僕が少しは話せると思い込んでたらしい。とんでもない、全て忘れた。

この時期に北極圏への旅行を選択するのも物好きだな。運が良ければオーロラが見れるということでワクワクしてますが、マイナス30度、40度の寒さに耐えられるかどうか。昨年ユーコンでドッグマッシャ-の方が、マイナス40度の寒紗では小便もでたそばから凍ると言っていたが、確かに最近、外に出ると鼻腔の粘膜がカチカチしてることに気付く(笑)それでも、マイナス10度以下の日々が続いて、マイナス5度を温かいと表現できるようになった自分なら、もう少し着込めば生き抜けるかな。

ロシアでもフィンランドでも "couchsurfing" をする予定なので、ロシアの宮廷文化、北極の夜とオーロラ、ロシア人、フィンランド人との酒宴、全てが楽しみです。

これから荷物をパッキングします。

2009年12月19日土曜日

Laul - eesti klutuur -




ルームメイトの Tuomas、フラットメイトの Eemil, Eevert 兄弟が冬休みでフィンランドの実家へと帰ってしまい、フラットには僕と香港の女の子2人、Maxine と Scottie だけとなりました。その他の留学生も学期を終えて実家に帰り始め、クリスマスと新年を控える師走の喧噪の中、昨晩は Genialistide Klubi というクラブにて「人生初」のライブを聴いてきました。バンド名は "ZETOD"。Setomaa という、エストニア南部に住んでいる少数部族(?)出身の4人組で、白地に編み模様の民族衣装をまとって Setomaa の民族音楽を取り入れた "Folk Rock" を奏でます。お経を読んでいるようなテンポと低く重い声、アコーディオンの音色が心地良いメインメロディーから突然アップテンポなロックで走り出すギャップ、どれをとっても新鮮でいい!

以下、ライブに熱狂する観衆を眺めていて思ったことです。

昨年からの経済危機でエストニア人の生活というのは大変だと思う。人は日々苦しんで、一向に明るい光の射して来ない生活に不安を感じていると思う。それでも、北海道よりも小さなこの国の少数部族出身の若者の舞台に、たくさんの人が心の底から楽しんでいる。北国の暗く、寒く、侘しい冬の生活も、一瞬で掻き消してしまう。それを見て、あぁ、これが「文化」なのかと、そう感じた。視覚的・学術的な意味での文化じゃなくて、精神的な意味での、その国の国民を勇気付け、奮い立たせ、見えない糸でつなぎ合わせる「文化」。歌う国、エストニア。ソビエト占領時代も「歌」という文化で人々の結束を保ち続けてきたこの国に住んでみて、そして実際に人々が生き生きと合唱する様を見て、各国の「文化」が尊重されなければならない理由、それが失われていくことが人々にどれほどの精神的影響を与え得るか、微量ながらも「頭」ではなく「心」で感じ取ることができた。それは他人が勝手に取り上げていいものでも、理由もなく貶していいものでもない。

文章が上手でないので、感じたことを正確に文字にして表せませんが、僕は "ZETOD" のメンバーとエストニア人の観衆が笑顔で楽しそうに歌っているのを見て、彼らの文化を本当に羨ましく思いました。

まぁ、辛気臭い話は置いといて、是非とも "ZETOD" をお聴きあれ。

2009年12月16日水曜日

Sinine ja valge








冷凍庫の中。

マイナス14度の世界とはそういうものでした。以前ブログで書いたように今週に入って気温はぐっと下がり、マイナス10度を下回らなくなりました。日曜日の夜に大雪が降り、月曜の朝は、街を覆う真っ白な雪と2,3週間ぶりの青空と太陽。お昼の授業も放り出して、カメラ片手に冬のタルトゥを散策。以前思いついた「寄り道」も3時半には日が暮れる冬にあっては満足に散策することもできず、まだ目にしていないタルトゥの一面を探しに行きました。

市の中心を流れる Emajõgi (エマユギ川) に沿って伸びる散歩道を歩けば、冬の寒さで凍りついた川の水が大きな氷(2番目の写真)となって川を流れ、時折、氷同士が大きな音を立てて削りあい、川岸に堆積していく。北から南へ流れる Emajõgi を逆らうように進み、中心街を離れると一番上の写真のような白い絨毯の並木道が現れる。街の中心に大学の建物が集中しているため普段の生活もそ自ずとその枠内に狭めてしまっていたわけですが、タルトゥというド田舎な国のド田舎な街が、実際には非常にヴァラエティーに富んだ「顔」をもっていることに気付く、そんな初冬の昼下がりでした。

「歌の祭典」の会場を訪れた後、Emajõgi の南岸、街の広場の北側の "Supilinn" という、お洒落で可愛く、色取り取りの木造住宅が集まる地域へも足を運びました。

マイナス14度の中をニット帽もかぶらずに2時間も歩いたため、耳と顔の筋肉が全て凍りつき、もう寮に戻ろうと思ったその時、見知らぬ男性に声をかけられる。西シベリアのノヴォシビルスクという街出身の男で、当然ロシア語とエストニア語しか話せず。エストニア語の練習をするせっかくの機会だが、寒さに耐えられない身としてはあまり関わらずに帰路を急ぎたい。どうこうしている内に、タルトゥ大学植物園を案内してくれることになる(笑)身振り手振り交えながら少しはエストニア語で会話をすることができたが、口周辺の筋肉が凍っているためまともに発音できない(笑)エストニア人があまり笑わないのはきっとそのためだ。

彼の名は Alexei。僕が凍えているのに気付いて、懐からウォッカを取り出し、「飲め!」の一言。昼間っから何持ち歩いてんだよ(笑)これがロシアン・スタンダードなのでしょうか。さらにはタルトゥの南西に位置するElva という街の彼の自宅の住所まで教えて頂きました.....
「夏に俺の家へ来い!」とのことですが、さてさてどうしようか.....

2009年12月13日日曜日

Japan, Estonia, Columbia and Cameroon

昨晩、ジブリ映画が大好きになったコロンビア人の Carlos と「千と千尋の神隠し」を観た後、25歳の誕生日を迎えたカメルーン人の Dean を祝ってキッチンで団欒しているうちに、Dean がエストニア人学生の住む寮の生活環境を話し始め、そこにエストニア人の Õie が加わって、気付いたら政治やら、経済やら、環境問題やらについて意見交換が始まっていました。

アジア、ヨーロッパ、南アメリカ、アフリカと、全員が異なる大陸出身の、文化、経験、価値観をもつ4人が、それぞれの国、地域が抱えている問題を話し合い、新しいことに目を開かされる、そんな貴重な時間を共有できた一夜。

エストニア人の Õie は、ソビエト占領時代のエストニア人の悲惨な生活環境、例えば、僕が今住んでいる寮の2人部屋程度の大きさの部屋に6人もの家族が押し込まれて住んでいたとか、祖母の家にはトイレも風呂もなかったとか、消費税・所得税が20%もするため、エストニア人のほとんどは経済的に中流か、それ以下の生活を強いられている、など。

カメルーン人の Dean は、NGOや赤十字などアフリカの貧困改善のために活動している団体も、所詮は『仕事』であり、彼らの給料、広報活動、旅費などに寄付金の大半は使われ、実際に苦しんでいる人々には何も届かないと話してくれた。「金を浪費する余裕があるのなら、自分の国で底辺に沈む貧しい人々の救済や病院の設立や医療機器の充実を図ることに使ってほしい。ワクチン接種や病気に対する処方薬を1度体に取り込むと、その『毒』が体を蝕み毎年のように新たなワクチン・薬が必要になり、どんどん体は弱まっていく。そして慈善団体はワクチンを手に入れるための寄付金を募り、彼らだけが得をする。アフリカの人々はそういうものに頼らずとも、祖先から伝わる薬草医療や有機的な果物や野菜を接種することが健康を維持する一番の方法だと知っている。」

コロンビアの Carlos は、アマゾンの熱帯雨林が毎年、異常なスピードで伐採されていくこと、生計を立てるために後先考えずに森林を破壊していく現地住民、2年間従事したボランティア活動で、自然環境に少し手を加えることが自然の営み全てを狂わせることを無知な人々に教え、植林活動を奨励して、少しずつ人々に知識を植え付けていった話などをしてくれた。

正直、僕にとってどれも耳新しい話ではない。高校の授業、大学の授業、テレビ、新聞、インターネットどこにでも書いてある。それでも、エストニアで4カ月、学生生活を送ってきた中でもっとも衝撃的だったひと時を過ごしたと感じる一番の理由は、こういう問題を抱えた国に住んでいる人の口から出てきた、実感を伴わせるリアルな話だったから。うっすらと涙を浮かべて訴える、皆の目が心に焼きついて離れない。

教室で勉強してきたどんなことよりも意味がある。留学することの意味って、こういう経験をすることなのだろう。

2009年12月12日土曜日

Eurail Pass


1月のヨーロッパ列車旅行のための Eurail Pass が届きました。

これは非EU圏の国籍の旅行者用のパスで、15日間有効なものから3ヶ月間有効のもの、1カ国でのみ有効なものから21カ国で有効のもの等、いろいろとヴァリエーションがあります。僕は21カ国21日間有効のパスを購入。値段は€429。

EU市民には、InterRail Pass という特別のパスがあって値段ももっと安いのですが、購入資格はEU加盟国国民またはEU加盟国に6カ月以上滞在している者のみ。僕はエストニアでまだ4カ月

パスが有効な国は、オーストリア、ブルガリア、ベルギー、クロアチア、チェコ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、イタリア、アイルランド、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、モンテネグロ、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア、スウェーデン、スイスなど。

イギリスが入っていないこと、ノルウェー、スイス、セルビアなどEU非加盟国が入っていることから、必ずしもEU圏と重なっているわけではないようです。種類によってはパスが有効でない国もあります。

タルトゥにいるのは大好きだけど、早く旅行に行きたいの.........

フランクフルト、ケルン、ミュンヘン、ノイシュヴァンシュタイン城、ザルツブルク、アルプスのユングフラウ、マッターホルン、ヴェネツィア、ウィーン、ブダペスト、プラハ、ベルリン........

にしても、金はいくらかかるんだろうか?

2009年12月11日金曜日

Pidu Merviga



昨日、エストニア語の元先生の Mervi が寮に遊びに来てくれました。

正規の先生が授業に復帰してから1ヶ月半ほど会っていませんでしたが、Facebookでは連絡を取り合ってました。

夏に森で摘んだブルーベリーを使った手作りパイを焼いてきてくれて大感激。こちらとしては特に料理のバリエーションも作る暇もなく、とりあえず"こくまろカレー"で我慢してもらう...........

ケーキとお茶とクッキーで3時間、その後のエストニア語の授業だとか、冬休みの予定だとか、学生寮の生活の実態だとか、いろいろ話した。こういう家庭的な団欒の場は、日本人同士でも、外国の人とでも、変わらずにいいものだなぁ。

どこかで読んだ一節、「エストニア人と仲良くなるのは大変だけど、1度手にすれば、その友情は永遠に続く」。うん、うん、その通り。

Mervi はまだ26歳らしいから、初めて担当した学生って意味でも思い入れが深いんだろうな。

昨日、今日とエストニア語の筆記試験・口頭試験も終わり、残すところ帝政ロシア史の口頭テストとエッセイ1つだけ。

それが終わればロシアへおさらば。

2009年12月9日水曜日

sombune

「太陽ってなんですか?」

こんな質問をしても理解を示されるだろうほどに、ここ最近、太陽というものにお目に懸かっていない。
エストニアの秋と冬は灰色一色で構成されているのか?
今週になってようやく気温が0度まで下がり始めてきたが、未だにまとまって雪が降らない。
太陽がない、寒い、でも雪がない。
最悪だ......。エストニア、フィンランド、ロシアなどの北国の人が酒を飲む以外に冬を過ごす方法がないのもよく分かる。
朝8時に起床しても外はまだ暗く、再度眠りの世界へ。再び目を覚ませば既に夕方のような薄暗さ。授業への出席意欲は削がれ、課題も先送りにされ、......気候が人の精神状態に及ぼす影響の多大さを、身をもって実感している今日この頃。

「雪よ早く降れ」、そんな期待を胸にエストニアの天気予報サイトを覗いてみると、

"12月14日月曜日:気温-10度"

2009年12月7日月曜日

PÖFF ja GHIBLI nädal

昨日、「空気人形」なる変な日本映画を観てPÖFF(=Dark Night Film Festival)が終わった。

結局先週は、エッセイを1つ終えた後の反動期間ということで勉強はせずに映画ばかり。

観た映画は、

・Accident: 事故に見せかけて殺人を遂行する犯罪者。Death Note の話を思い出しながら見ると面白い。
・南京!南京!: 南京大虐殺の現実をリアルに伝える映画。生々しい映像と現実に翌日まで気分が悪くなる。
・Reykjavik-Rotterdam: 「空気人形」のチケットを9枚購入する際に、10枚まとめて買うと割引があるということだったので、内容も知らずにチケットを購入。アイスランド人のマフィアかなんかの話。適当に選んだ割にはストーリーもギャグも面白く、当たりだった。
・空気人形: 性欲処理のための空気人形がある朝心を持ってしまう。とりあえず板尾創路が出てた。彼には年末の「ガキ使」に期待。

その他、You Tubeで、

・風の谷のナウシカ
・魔女の宅急便
・もののけ姫
・千と千尋の神隠し
・ハウルの動く城

ジブリ映画を立て続けに観る。

「魔女の宅急便」で、キキの13歳で独り立ちして知らない街で暮らしていくという今まで何度も観てきたストーリーに、8月からエストニアという国で初めて一人暮らしをしている自分の経験を重ね合わせて共感・感動する。

自然大好きコロンビア人の Carlos は「ナウシカ」と「もののけ姫」を観て、とても教育的な映画だと大感動。ヤックルが欲しいらしい。

どうせなら「ラピュタ」も観たかったが時間切れ。今週はさすがに勉強しなきゃ。

それとこの間のロシア史のエッセイ、20点満点中15点で、何も参照せずに2日間で書いた割にはまぁまぁ良い評価を頂きました。

問題は来週の帝政ロシア史口頭試験。エッセイなら書けるが、僕は英語が話せません。

2009年12月1日火曜日

"Nanjing, elu ja surma linn"

昨日お話しした"PÖFF"の上映作品の一つ「南京!南京!」を観てきました。

1937年に始まった日中戦争時の「南京大虐殺」に焦点を当てた映画で、監督は中国人の陸川さん。

歴史的大事件を扱った映画だけに、民族感情を煽るような映画なのではと危惧してましたが、事実を刻々と映し出し、この悲劇を現代の中国人・日本人はどう捉え、お互いに理解しあっていけばいいのか、それを考える上で一助となる秀作です。

事実を鮮明に表現しているだけあって、作中には日本軍と中国軍の残酷な市街戦、広場に集められ一斉に銃殺される人、生き埋めにされる人、教会に押し込まれ建物ごと火あぶりにされる人、電柱に吊り下げられた死体や生首など、惨たらしい光景が何度も描かれ、途中気分が悪くなりもした。

作中の演技において感銘を受けたのは日本軍兵士を演じた日本の俳優の方々。南京市民の大量虐殺、女性への強姦、小さな子供を2階から放り投げるシーンなど、精神的に大きな苦痛になるだろう場面もしっかりとリアルに演じてある。きっと撮影中は辛かったことと思うが、彼らの努力がこの映画を更に価値あるものにしていると感じる。

生きることを憂いて死に行く人、幸運にも生き続けるチャンスを手にした人、精神的苦悩により死を選ぶ日本軍兵士、英語版のタイトルが"City of Life and Death"であるように、生と死の中に戦争に翻弄され、傷つき、崩壊していく人々の魂が見える。この映画は事実を克明に描くことで、南京大虐殺という悲劇の歴史を人々の心にしっかり留めさせる役割はもちろん、人々の精神の支配と崩壊という戦争の本質を暴くことで、この事件に対するもっと大きな、普遍的な視点に立った理解を人々に求めている。

中国の作品であるにもかかわらず、物語は日本軍兵士の視点に立って進んでいくという点に、陸川監督の求めているものが見えてくると思う。

日本でこの映画が上映されたかどうかは分かりませんが、学校でもロクに教えられることのない事件だからこそ、もし見る機会があれば、是非とも勇気を出して歴史の真実に目を向けて欲しいと思います。

映画通でもないのに少し生意気な意見を述べさせてもらいました。真剣に物事を考え始めると整理がつくまで頭から離れないから困ります。

旅行計画だけ考えることにします。

2009年11月30日月曜日

Novembrilõpus

う~ん、エストニアに来てとうとう3カ月が経ってしまった。最初の2カ月は旅行にも勉強にも(と言ってもエストニア関連のことだけ)充実していたけど、11月は腐りに腐った1カ月となってしまった。ブログも3週間も更新してなかったなぁ。。。

11月にあったイベントや思ったこと

・「ロシアは後進国か否か」というお題のエッセー(6~8枚)。課題量は大したことないけど、如何せん9・10月は勉強してなかった。11月をエッセーのための期間として旅行は控えたにもかかわらず、図書館で文献を探す気にならず、書き始める気にもなれず、重い腰を上げたのは締め切り2日前。とりあえず授業には出ていたから、授業で聞いたことと高校の世界史で習ったことだけを頼りに書いた。まぁ、成績も単位もどうなっても構わない。。。(単位はくれ)

・PÖFF(-Dark Night Film Festival)という毎年恒例の映画祭(11/27~12/6)が始まった。昨日は香港の"Accident"という映画を観賞。"Death Note"を思い起こさせるストーリーだった(別に模倣だとか、細部が似てるとかそういう話ではない)。12/6には"空気人形"の上映がある。つい最近の映画らしいけど、予告編見た限りでは怪しそう。。見たことある人いたら感想聞かせて下さい。PÖFFとは別に"2012"という映画も友人に連れられて観に行った。劇場に入るまでどんな映画か知らなかった。在り来たり過ぎてつまらんかったけど、チケット700円だし、まぁいいか。

・何故かここ2~3週間かなり暖かい。気温は安定して5~8℃。10度以下を暖かいと言えるようになった自分は寒さに強くなったのだろうか。にしても、せっかく街全体がクリスマスを迎えてライトアップされ始めたというのに雪が降らないんじゃ絵にならない。

・クリスマスで思い出したが、今年のクリスマスはロシアで過ごすことになる。ハンガリー人の友人の Daniel と帝政ロシア時代の首都サンクトペテルブルク・北極圏の街ムルマンスク、フィンランドのヘルシンキなどに行って、大晦日にはタルトゥに帰る予定。ムルマンスクでは運が良ければオーロラが見えるが、そんな希望を抱く前に防寒対策しないと凍死するだろう。12月の北極圏って気温何度だ?というか Daniel ロシア語話せるのか?

・1月は中欧旅行。ドイツ→オーストリア→リヒテンシュタイン→スイス→イタリア(北部のみ)→ハンガリー→チェコを3週間で回る予定。念願のアルプスを拝めるということでとても興奮しております。スイス滞在日数を増やすため、旅行計画も全て引き受けました。安上がりに済ますために、"Couch Surfing" にもトライしてみるつもりです。新たな世界、人、文化に目を開き、新たな刺激と好奇心と情熱を作り出すまたとない機会。ただ1つの懸念は、ロシア史の期末エッセーの締め切りが旅行期間真っ只中の1/15ということ.......まぁ、いいか。

・11/27に"Georgian National Evening"というタルトゥ大学在学のグルジア人留学生によるパーティーがあり、グルジアに完全に魅了されてしまった。美しいカフカス山脈、目にも止まらぬ激しく華麗なステップと情熱的な民族音楽が魅力のグルジア・ダンス、黒海の気候に育まれた葡萄から絞ったグルジアワイン、美しい女性、そして何よりグルジア人のもてなしの心。昨年のロシアとの紛争で危険なイメージしかなかない国だったが、いやはや、僕のハートはがっちりと掴まれてしまいました。来年行くこと決定!

・コロンビア人の友人 Carlos と来年6月にノルウェイ・スウェーデン北部で屈強ハイキング生活をすることが決定。期間は5日間だが、物足りなければ1度街に戻って食糧・装備を整えた後、再び野生へと戻ってさらに5日間過ごす予定。エストニアに山がないことに病んでいる僕には神の救いといっても過言ではない Carlos との出会い。Carlos が"ゲイ"なことにだけ気を付けます(笑)

・7月に日本へ帰る際、シベリア横断鉄道で帰ろうかな、なんてバカなこと考えてます。実際、飛行機と比較して安くつくし、車窓は比べ物にならないし、帰路においても新たな発見・出逢いがあるということを考えると、これは是非とも実行に移すべきことか。。。但し、連れが1人は必要。ロシアで、ましてモスクワで1人は流石に怖い。スキンヘッドには拉致されるだろうし、警官にはいちゃもん付けられて賄賂要求されるだろうね。悲しいかな、それがロシアの都会に対する固定観念だ。ロシア語も勉強しなきゃ。

まぁ、こんな風に旅行計画に夢を膨らませ、エッセー・テストという現実からの逃避を図った1カ月が11月でした。明日から12月です。希望に満ちた2010年を迎えるために、12月は帝政ロシア史の口頭試験と期末エッセーへの勉強に追われることになるだろう。全ては後の楽園的生活のために、今は歯を食い縛って勉強に専念しよう。

2009年11月7日土曜日

Talv

11月になって、曇天と風雨のエストニアの秋が終わり、今日はどっさり雪が降りました。

外には雪に浮かれ騒ぐ"大学生"、母親の引く橇に乗った幼児、除雪機によってかき分けられた雪の山。いよいよ北国の冬が始まる頃でしょうか。テレビがないのではっきりとは分かりませんが、友人の話によると、今年のヨーロッパは冬の到来が早いとか、今年の冬は暖冬が続いたここ2,3年よりも寒いとかなんとか。

日本ではいくつか嬉しいニュース、悲しいニュースがありましたね。

まず、ヤンキースの松井秀樹のMVP。怪我でどんなに周囲の期待を裏切っても、メディアやファンに叩かれても、松井はいつも謙虚に、言い訳をせず、辛抱強く耐えて練習を重ねる姿が印象的ですが、その苦労・努力がついに報われたという感じですね。星陵高校時代も明徳相手に5連続敬遠されても感情を出さず1塁ベースへ走り続けた。松井ファンではないけれど、そういった人間性-謙虚さや忍耐というものには感服する。もう一度、"ゴジラ"が大暴れしてくれることを期待します。

もう一つ、悲しいことに、落語家の円楽さんが亡くなりましたね。「笑点」は円楽さんが司会をやっていたころからずっと見ていたので、落語会にも日曜夕方のお茶の間にも悲しいニュースでしょう。心からご冥福をお祈りします。

2009年11月5日木曜日

Carlos




昨日、新たな友人ができました。

Carlos というコロンビアからの留学生で、タルトゥ大学で記号学を勉強しています。

何故彼について書きたいかというと、彼がアメリカで Outdoor Education のライセンスを持っているから。

ご存知の方もいると思いますが、僕は昨年、早稲田大学の夏季短期留学プログラムの一つ「ユーコン原野で学ぶリーダーシップ研修」に参加し、カナダのユーコン準州で NOLS – National Outdoor Leadership School の指導のもと、1週間大自然の中で暮らし、アウトドアスキル、リーダーシップスキル、環境問題などを学びました。

残念ながら Carlos はNOLSのインストラクターではありませんでしたが、互いにシェアできる情報や思い出がたくさんありました。例えば上に掲載した写真。ほとんどの人は、彼が何故フライパンの上で火を焚いているのか分からないと思います。実はこれ、ブラウニーを焼いているところなのですが、Carlos は一目見て言い当てたし、もう一方の「大自然でのトイレの仕方」を教えている写真でも、お互いにこの爽快感をシェアすることができました(笑)

彼は合衆国でカヤック、カヌー、ハイキングなどを教えていて、実際に彼が受け持ったプログラムの写真を見せてもらい、南米の自然などについてもいろいろと教えてもらった。その他、原野に出て行くときの計画や注意点など、僕が昨年教わってすでに少し忘れかけていたことを思い出させてくれもした。こういう知識や経験をシェアできる人が日本にも留学生の友人にもいなかったから、言葉では言い表せない嬉しさを感じています。

夏になれば、彼とともにハイキングに行くこともあるかもしれません。北欧ハイキングの旅、バルト3国自転車の旅、クリスマス中欧の旅など、旅の計画で僕の頭は溢れ返っているところです。勉強どころじゃありません。今月エッセイあるのに。

とにかく、趣味を同じくする同志ができたことを本当嬉しく感じています。

2009年11月4日水曜日

Mulle ei meeldi Tallinn





先週末の Tallinn への旅行について簡単に書こうと思います。

Tallinn の旧市街についてはいくらでも情報が手に入るので他に譲るとして、その場で感じたことについて少々。

第一に、率直に言って、つまらなかった。Tallinn 旧市街は完全なる観光地。中世の衣装を身に纏って営業スマイルを振りまく人々。値の張るレストラン。たくさんの観光客。そしてたくさんのロシア人。日本人の僕が言うのも失礼だけど、この街では"エストニア"という国を感じなかった。これが都会の宿命なのかな。

歩いていてもロシア語ばかり耳に入ってくる。エストニア語が聞こえるとホッとする。そんな時初めて、自分はエストニアに恋をしている、と気が付く。1年間勉強した、あの美しいロシア語がどれだけ不快に聞こえたことか。Tartu に2カ月住んで、旅行もエストニアの田舎町にばっか行ってきたから、この街の雰囲気には耐えられなかった。ルームメイトの Tuomas によると、Tallinn には酔っ払いフィンランド人やロシア人などによる観光客を狙った犯罪・トラブルも多いらしい。

エストニア人の友人や先生とも話したけど、Tartu がエストニアで一番の街だということで意見が一致する。Tallinn の様な華やか旧市街があるわけでもなく、大きなショッピングモールがあるわけでもない、人口も Tallinn の4分の1しかないけど、誰もが好きになる街、それが Tartu 。Tallinn のクソ高いレストランで食事をしている時、安く、美味しく、親切な店員のいる Tartu のレストランがどれだけ恋しかったことか。この感覚を Tartu を知らない人に言葉で説明することはできないけれど、知らず知らずのうちに誰かに恋した時と同じ感覚です。言葉が見つからなくても、その人を愛して疑わない感覚。そしてこの街を作り上げているのはやはりこの街に住むエストニア人たちであって、どれだけシャイな彼らであっても、僕はもうエストニア人に恋しているわけですね(笑)

Ma armastan sind, Tartut!!!!

感情的になりたくなるほど大好きな街 Tartu についてでした。

第二に、写真を撮ることに飽きた。特に教会などの建物や展望台からの景色などの写真には飽き飽きしてきた。香港の留学生に教わって凝り始めた写真だけど、今自分がしてる旅行は写真を撮るための旅行なような気がしてならない。アングルを探すのに時間を使うのはもったいないし、面白い風景を見つけるために辺りを探し回るのも疲れる、写真を撮った後に編集するのも面倒だ。今回の旅は写真の師匠 Eugene と行ったけど、お互いにより良い写真を撮ろうと競っているような雰囲気があってそれも嫌だった。そして何より、写真に「人」が写っていないこと。どんなに綺麗な写真でも下らなく見えてくるのはそこに「人」がいないからだ。ここに写真を2枚掲載したけど、教会が写っているほうの写真は嫌いになった。もう一方の写真の男性が誰かは知らないけど、よっぽど見ていて心動かされる。

旅行中、教会の受付の女性と、展望台でエストニア音楽のCDを売っている男性とエストニア語で話す機会があった。拙いエストニア語でも彼らの母語でコミュニケ―ションしようとしている日本人の話を優しく丁寧に聞いてくれた。両方とも僅か5~10分程度の会話だったけど、この旅行中に見てきたどんな素敵な景色や建物よりも心に焼きついた思い出だ。公園を散歩しているエストニア人の写真も数枚撮ったが、旧市街で撮ったどの写真よりも美しく輝いている。

十人十色。人それぞれ旅に求めることは違うけど、少なくとも自分がしたいことは写真を撮ることではないと気付いた、ある意味とても重要な Tallinn への旅でした。

2009年10月29日木曜日

寄り道


2週間ほど前ブログで、何か新しい刺激がほしい、と書きました。コメントくれた方ありがとうございます。

一つの案として、毎日寄り道をして帰ることにしました。いつもと違う道を通って寮に帰る、ただそれだけのこと。それでも、中心街には見つけられない古風なカフェがあるかもしれない、おいしいレストランが見つかるかもしれない、素敵な通りや建物があるかもしれない、普段会わないエストニア人の友人に偶然道端で会うかもしれない、新たな友人ができるかもしれない。もちろん毎日がそんな発見に満ち溢れることはないだろうけど、今日はこの通りを歩いてみよう、明日はここを通ろうって感じで、毎日ウキウキした気分にはなれると思う。そういう冒険心、周囲の環境への飽くなき探求心を常に持ち続けてこそ、この街を、この国を、最終的にはこの国の人々を理解できるようになると思う。義務的に聞こえるからこういう言い方は嫌いだけど、1年しかエストニアには居れないんだから、やれることはすべてやって、見れるものは全て見て、できる限り人と会って、お腹一杯になって日本に帰りたい。

ということで、今日から早速実践。実際に語学授業の校舎から寮へとつながる道と正反対の通りへ入っていくと、まず古風なトラックを発見。興味津津でトラックが通り過ぎるのを見つめていると、運転手のエストニア人が手を振ってくれた。こんなこと何も意味はないんだけど、何か嬉しくなる。1時間ほど歩いていると、10日ぶりに太陽が顔を出し、夕焼けに染まる"Jaani kirik"の綺麗な写真を撮ることもできた。寄り道したからこそ、その瞬間に立ち会えた。毎日どんより曇り空のエストニアの秋に、あんな綺麗な風景を見れたのは寄り道した甲斐があってのこと。「寄り道」は続ける価値があるなと思った。

明日から2泊3日で、エストニアの首都 Tallinn へ行ってきます。

2009年10月28日水曜日

日本語ボランティア

10月25日でサマータイムが終わり、日本との時差が7時間となりました。

初めてサマータイムという制度の効用を実感しました。1時間長く寝ていられる、夜が長くなる etc...

それはともかく、10月になって大学の日本語授業のボランティアを始めました。タルトゥ大学には、ミヤノさんという日本語教師の方がいらっしゃいます。実はタルトゥにはもう一人、北大からの日本人留学生チエコさんがいて、2人でたびたび授業にお邪魔させてもらって学生の会話相手を努めています。

エストニア人学生はとてもシャイなので、会話を弾ませるのが大変(笑)先生から、「とりあえず何か話して」って言われても、全員が自己紹介した後はほとんどの人がだんまり。「エストニア語話せますか」と質問されたから、自転車でバルト3国を旅する計画があるといったら、苦笑いの後に「頑張って」と一蹴(泣)

エストニア人の内向的な性格はどこか日本人に似ているところもあると思う。会話の必要がないときは無駄のことをベラベラ話したりしないし、外国人、特にアジアやアフリカの人と話すのは少し怖いのかな(笑)

まぁ、日本人も欧米の白人に英語で話しかけられても最初は怖気づくと思うけど。早稲田のロシア語の授業にロシア人が来たとしても、誰も積極的に質問したりしないだろうな。

クラスには、フラットメイトで香港からの留学生の Scottie という女の子もいます。Scottie は日本語を勉強して1年。他の学生は全てエストニア人なので、積極的に日本語で発言しようとする Scottie と、言い方が悪いですけど、ある意味消極的なエストニア人の国民性の違いといったものが浮き彫りになって面白いです。

まぁ、シャイなのが悪いわけではないし、語学の授業でせっかくネイティブの人が来てるんなら積極的になったら、ってだけです。エストニア人はシャイで積極的に他者に働きかけるような人たちではないだろうけど、優しさ、心遣い、歓待心が、北国の寒さで硬直した、微笑みをたたえないその表情の裏に隠れているんだと思います。

とはいったもののエストニア人全員がそうなわけでもなく、チューターの Pille のように話し出すと止まらない人も中にはいるわけですが、エストニア人がシャイだからどうこう言うんじゃなくて、彼らがシャイだと知っているからこそ、こちらが何か工夫して彼らを授業に引き込んでいく工夫をしなければならないでしょう。

エストニア人と一番仲良くなる方法はやはりエストニア語で話すことです。仲良くなったエストニア人の学生や、エストニア語の授業の先生の Mervi とFacebookでコミュニケーションをとるときはいつもエストニア語で書くようにしています。ネイティブの文章を肌で感じることができ、語彙増強にもなり、会話データを保存すれば教科書にもなる。勉強を始めて2カ月、全ての友人から信じられないぐらい上手だと、お褒めの言葉を頂戴しておりますが、それもこれも優しい優しいエストニア人のおかげです。

今後も彼らの助けを借りつつ、1年後にペラペラとエストニア語を話して颯爽と自転車の旅をしている自分を想像しながら、日々勉学に励もうと思います。

午後17時の時点でとっぷりと日が暮れているエストニアより。

2009年10月24日土曜日

Party with Estonians

昨晩はエストニア語の授業のクラスメイト、Seiiti のフラットのパーティーに行ってきました。

日系ブラジル人3世のSeiitiは、驚くことにスイスのジュネーブで国連の弁護士として働いていたキャリアマン。仕事の多忙さに自分の人生を見つめ直し、新たな人生をスタートさせるべくエストニア人の彼女のいるタルトゥへとやってきたそうです。さすが元国連職員だけあって、タルトゥ旧市街の中心に位置する彼の自宅は超豪華。Seiiti とその彼女、彼らの友人のエストニア美女2人、エストニア語の先生のMervi(写真右の人) 、ドイツ人の女の子2人、香港人の Eugene と僕の9人で、料理やドリンク、デザートを作りました。女性陣が3分の2を占めていたので、男性陣は雑用係、写真撮影などに追いやられ、途中、電気の大量使用によってブレーカーが落ち、さらには家主の2人がブレーカーの位置を知らず、電気工を呼ぶために30分以上料理が中断されるなどのトラブルも。

エストニア語の先生の Mervi がいたため、会食中の話題はエストニア語へ。正規のエストニア語の先生が休暇中のため、Mervi が代理として授業を担当してくれています。この授業が初めて受け持つクラスのため、授業中文法の説明に苦戦したり、学生のテストの結果に神経質になったりしてますが、質問に対してしっかり調べて答えてくれる優しく学習に協力的な人で、普段の何気ないしぐさも愛嬌があって親しみが持てる。残念なことに11月の第2週から正規の先生が休暇から戻るため、Mervi とは11月5日でお別れです。そういう意味で、このパーティーは Mervi との良い思い出になりました。

その後は、日本の文化が大好きな弟を持つエストニア人の Katrin が「はっぱ隊」の"Yatta"をYou Tubeで流し始め、日本語の罵り言葉を教えろなどと半暴走状態。いろいろ考えてみたけど、日本語の罵り言葉ってどれも子供っぽい。大学生にもなってそんな言葉は恥ずかしくて使えない。Katrin 曰く、「外国語学習で最も大事なことは罵り言葉を覚えること」。

深夜3時を回ったところで、学生の溜まり場のバーをいくつか案内してもらった。エストニアにはロシア人もたくさんいて、バーとかクラブに行くのにはためらいがある。公平に見れば、早稲田の学生が馬場でバカ騒ぎしてるのと何も変わりないことだけど、アジア人にとってヨーロッパの、しかもロシア人も多い東欧の国のバーに行くのは、偏見も手伝って恐怖感を感じる。まぁ、図体のでかいスキンヘッドがバーの前でたむろしてたり、パーカーのフードを被ったいかにも悪そうな奴らがウロウロしてたら、日本人が不安になるのも仕方ないと思うけど.... 外国人が馬場の飲み屋に入ったら同じような身の危険を感じるのだろうか....

まぁ、こんな感じでエストニア人学生のキャラやナイトライフを垣間見た一晩でした。

明日は、エストニア人の友人 Aki、Maarja、香港のEugene の4人で Kõrgemaa というところへハイキングに行ってきます。

2009年10月22日木曜日

South Estonia












先週末に行って来た、エストニア南部への旅行について少々書きたいと思います。

ハンガリー人のDanielが運転する車に乗り、まずはエストニアの冬の首都、スキーで有名なOtepää という街へ行きました。いつも通り最初はツアリズム・インフォメーションで街の地図や名所について尋ねるのですが、なんと受付の女性が“日本語“を勉強していた!!こんな小さな国の小さな町の人が自分の母語を勉強していることにちょっと嬉しくなった。異文化交流の小さな小さな芽を見つけた瞬間です。その他、宇宙から気を集めている(!?)“Energiasammas“という謎のオブジェクト、ダライ・ラマ14世がお祈りをした“Püha järv“という美しい湖、エストニアの10クローン札に印刷されている“Sõjatamm“という巨大な樫の木(写真1枚目)、それらを囲むなだらかな数々の丘など、Otepääは数々の見どころを持つ非常に美しく平和的な街です。

その後、Otepääからさらに南に下った Sangaste という街の教会と荘園屋敷を見て回り、そこから東のVõruという比較的大きな街でプロテスタントの教会、ロシア正教の教会を見学しました。ロシア正教会内部では礼拝が行われていました。あたりも暗くなってきたので一晩お世話になる、Ruusmäe という小さな村の Rogosi manor house(写真2枚目) へ向かいます。宿の管理人さんはエストニア人には珍しくとても陽気で笑顔の素敵な方。その内ブログに書こうと思いますがエストニア人はもの凄くシャイです。一晩2人部屋+サウナでわずか190EEK(≒1700円)。他に宿泊客はなく、一晩、この立派なmanor house のあらゆる設備が使い放題。お茶・コーヒーを好きなだけ飲めて、真夜中に音楽を流しても問題なく、サウナも好きなだけ入っていられる。修学旅行の時のように童心に帰って楽しんだ、といってもまだ19歳。サウナでは Daniel と旅について語った。25歳の彼は東欧やバルカン半島の小国を中心にヨーロッパでは27カ国を旅し、アフリカや東南アジアにも旅をしたことがあるという。しかもヨーロッパ圏内の移動手段は飛行機ではなく、全て電車。さらにホテルには泊まらず必ずテント、寝袋持参のタフな旅を好む。今回の旅行の立案・計画者も彼で、旅行先に関する予備知識の量、旅先で例え言葉が通じなくても現地の人に情報を尋ね理解しようとする姿勢、旅行帯同者への気配りなど、旅に慣れているだけあって見習えることがたくさんある。生真面目な人かと思えば、ユーモアもあり、どこかネジが抜けているような面もあって、エストニアで出会った人の中で一番カッコいいと思える。

そんなことを考えながら夜が明けるとあたりは白銀世界。深夜から降り続いている雪の中を夏用タイヤで出発。雪の降り積もった野原にぽつりとそびえる"Plaani"ロシア正教会(写真3枚目)を訪れた後、再びエストニア最高地点の"Suur Munamägi"へ。先週の快晴とは打って変わり、展望はゼロ。そこから東へと向かって、Vana-Vastselinna という街の要塞跡、"Piusa Koopad"という砂岩の洞窟などを観光。途中の Obinitsa という街では、僕のお気に入りの映画"Into the Wild"に出てきたような乗り捨てられたバスがあったのですが、DVDのジャケットと同じ写真を撮るのを忘れてしまいました。その代わり、貨物電車の上に登って同じポーズの写真を撮りました(写真4枚目)。

今回の旅で一番ドキドキしたことは、エストニア-ロシア間の国境に近付いたこと。国境地点には"Stop"のゲートがあり、そこで写真を撮っていると、監視カメラに写った僕らを追いかけて来たロシアの国境警備兵(武装はしてないけど)に即刻立ち退くよう警告されました。これに懲りないDanielは再びその他の国境地点を目指します。次の国境地点には英語を話せるエストニア人国境警備兵(写真5枚目)が居て、彼によると、国境の10m付近には立ち寄ってはいけない、国境付近の写真を撮ってはいけない等のルールがあるとのこと。いろいろと危ないことをしつつ、次はロシア領土内を通るエストニアの道路へ行くことに。この道路はエストニア-ロシア間の協定でエストニアの車でもビザ無しで自由に行き来できる場所なのですが、この道路上で停車や、車の外に出ることは禁止されています。ここでも懲りない Danielは「タイヤの調子がおかしいから確認したい」とかなんとかいって車から降りようとしましたが、全員の反対によって彼の試みは退けられました(笑)危険なことをしたがる彼の性格にみんな少し呆れていましたが、僕は好きです。

そんなこんなでTartuへの帰路の途中、ふと空を見上げるとプラネタリウムを見ているかのような一面の星空。車を降りてしばらくの間、ガンダムの「めぐりあい」を聴きながら感傷に浸る.....、素晴らしい旅のエンディングとなりました。

2009年10月17日土曜日

I need change.


エストニアに来てそろそろ2ヶ月。こちらの生活にも完全に慣れましたが、自分にとって、少なくとも1年間しか過ごせない人間にとっては、落ち着いてしまうことは害毒以外の何物でもないように最近思えてきました。

タルトゥに来て間もない最初の2,3週間は、街を散策して,写真を撮って、いろいろなお店を巡って、自炊に悪戦苦闘して、周りの人にじろじろ見られて、新鮮さ、有意義さに満ちた日々を過ごせたのに、授業が始まって生活リズムが固まると、日本の大学生活とあまり変わらない日常に感じてしまいます。

何かしらの刺激を日々の生活に与えないといけない。今の自分は、留学という貴重な瞬間が無意味に流れ去っているのを傍観しているだけな気がする。

回りの環境に対する好奇心を持ち続ける必要がある。どんなに面倒くさいことでもやる必要がある。常に自分の生活に新しい風を吹き込むために、考え続けること、そしてそれを実行する行動力が非必要だ。例えば、「外は大雪だから今日は部屋にいよう」と考えたとしたら、その時点で今日得るものはゼロになる。ただ、「留学から必ず何かを得なければならない」というように義務的には考えたくない。「自分自身が一番楽しんでいる時が、たくさんのことを学び、吸収できる時だ」という言葉を、出国前に大学の先輩から頂いた。これ以上思考に奥入りしても無意味なので難しい話は抜きにして、単純に日々の生活が退屈になりつつあるから、何か刺激を欲している、ただそれだけです。全ては毎日を楽しく過ごすため。経験がどうとか、そういう事は自分が実際に何かに挑戦した後に考えるべきことだ。

ということでここ2、3日は、どうやって毎日に異なる色を与えることができるか、どのような方法が考え得るか、何が必要か、タルトゥの地図を眺めたり、尊敬すべき日本の友人の話を思い出したりして、打開策を模索しています。このブログを読んでくださっている方々、もし何か良いアイディアがあればコメントお願いします。

上の写真は、ルームメイトの Tuomas が解剖学の授業で使用している頭蓋骨です。顎が猪木っぽい。

明日から、1泊2日でエストニア南部への旅行に行ってきます。

2009年10月14日水曜日

寿司


今日は雪は降りませんでしたが、雨と強風の一日。太陽が恋しい。


エストニア語の授業ではテストが返却され、見事"A"評価を獲得。他の授業の予習・復習を疎かにして勉強してるからにはこの評価は当然得なければならないんですけどね。エストニア人の友人とはエストニア語でメールするようにしてるし、独学で進めてる教科書も4分の3が終わり、あと2週間もすれば文法事項は一通りカバーしたことになる。それからは、どんどん実戦経験を積んで会話能力とリスニング能力を高める段階。先生も友人もみな協力的な人ばかりなので、今学期中にはある程度話せるようになることが目標です。
ところで、今日はフラットメイトの Eemil(23)、Eevelt(20) のフィンランド人兄弟が寿司を作ってくれました。彼らもルームメイトの Tuomas と同様タルトゥ大学で医学部生として勉強していて、授業に行く時も、食事も、ジョギングも、いつでも一緒の仲良し兄弟。彼らはヘルシンキの出身で、ちょくちょく週末にヘルシンキに帰っては蕎麦や醤油、寿司用の海苔などを持ってきてくれる、非常に思いやり深く分別のある人たちです。フィンランド人は日本人と性格が似てるなんて言われますし、一緒にいて非常に過ごしやすい。そんな彼らが作ってくれた寿司にはしっかりと日本の寿司のネタが入っていて、とても美味しい。特に鮭の握りが最高。昨日、"TOKYO 寿司 BAAR"で食べたサワークリームの入った、法外に高い寿司の百倍は良かった。 スーパーで発見した日本酒"月桂冠"をちょびちょびやりながら、久しぶりの日本を味わった夕食となりました。
あぁ、日本が恋しい。

2009年10月12日月曜日

Snow!!


朝起きたら、が降ってました。まだ10月中旬なのに、日中の気温は1℃。初雪に少しテンションあがると同時に、外に出歩く気がなくなる。予報では今週は雨・雪が降り続けるようです。北国の厳しい冬が遂に到来しました。外気に触れると眼球がやけにヒンヤリする。ジーパンも凍ったように寒い。
この時期に雪が降る時点で僕には驚きですが、それでもここ最近、エストニアでは温暖化の影響で降雪量が減っているらしい。
今日は、エストニア人の友人 Aki に、同じくエストニア人で日本語を勉強している Maria を紹介してもらい、3人で Tartu 唯一の寿司レストラン"TOKYO SUSHI BAAR"に行きました。いろいろ日本の事、特にアニメについて尋ねられましたが、彼女らの知っているほとんどのアニメを僕は知りませんでした。民放で放送されているような有名なアニメじゃないから仕方ない。それなのに、"SLAM DUNK"、"ドラえもん"、"ONE PIECE"といった超有名アニメを全く知らない。香港の留学生がこういった王道アニメは全て知っているのとは全く対照的なこの傾向は興味深いことです。やはり日本とヨーロッパを隔てるこの距離が原因なのだろうか?それともアジア人とは好みが異なるのだろうか?
個人的には、彼らが情報を得る手段が You Tube などの動画サイトだということに原因があるんじゃないかと思う。香港は日本に近く、有名なマンガもすぐに翻訳されるから、日本とほぼ同じようなアニメが人気なんだと思う。でも、ヨーロッパの人は母語に翻訳された漫画をすぐに手に入れることはできないから、必然的に動画サイトに頼ることになる。僕はインターネットでアニメを見ることなんてあまりないから確信を持って言えないけど、動画サイトで鑑賞できるアニメは日本人が民放で見るようなものではなく、ケーブルテレビで放送されているようなあまり知られていないアニメが多いと思う。有名なアニメだと著作権の問題とかあって、1話まるごと投稿するのは厳しくチェックされるだろう。個人的な経験で言えば、ジブリ映画のサントラを携帯の着メロサイトでダウンロードしようとしても、アレンジされたのしか手に入らなかったし、You Tube で"ウルトラセブン"を検索しても1話も見つけられなかった(笑)それで、マイナーなアニメに行きつくんじゃないかな。いずれにしろネット難民の僕の推測なので、何かしらの方法でどんなアニメを鑑賞する方法があるんでしょうが、僕は知りません。
とりあえず彼女には"SLAM DUNK"だけは必ず見るよう伝えました。あと、できれば"ウルトラセブン"もと.....

2009年10月11日日曜日

Kassid







エストニア語で猫は kass と言います。こちらに来て早2カ月が過ぎようとしていますが、Tartuを含め、エストニアで旅行したあらゆる土地で猫をよく見かけます。

昨日も"Suur Munamägi"からの帰りのバスで外を眺めていると、刈り入れの終わった麦畑の中で何かを探している野良猫を3匹見つけました。先週"Taevaskoja"へ行った時も、Põlvaという街までハイウェイを歩いている途中に2匹見つけました。その他、Narva, Viljandiなどの比較的大きな街でも必ず2,3匹は見かけます。そのどれもカメラを向けると逃げるどころかレンズに興味津々で近づいてきてポーズまで取ってくれる。一番すごかったのはハイウェイの途中にあるカフェで見かけた黒猫で、食べ物を出すと後ろ足で立ち上がって手に入れようとする芸当まで披露。その後も足元にまとわりついて食べ物をねだり、車で出発しても途中まで走って追いかけてくる。「魔女の宅急便」のジジを思い出しましたよ。

こんなかわいい猫たちを見ていて、ふと某友人宅の“締め鯖“という名の“Norwegian Forest Cat“の子猫を思い出した。そういえば“ウナギ“とかいう名前の猫もいたな。本当の名前なんだっけ?関西スタンダードの命名が強烈過ぎる。

そういえば、3、4日前に人生で初めて野生のキツネを見ました。寮の部屋の窓からゴミ捨て場が見えるのですが、そこで学生が賞味期限を切らして捨てた食べ物を漁っていた。

まだ観光地以外の自然の中には入ってないので、ヘラジカ、クマ、オオカミ、ヤマネコ、イノシシ、シカなどにはお目に懸れてないけど、オリエンテーリングが趣味のエストニア人の友人がいるので、彼女に連れて行ってもらえればこういった野生動物に巡り合うチャンスが得られるかもしれないですね。

2009年10月10日土曜日

Suur Munamägi








今週は週3回あるエストニア語の授業が全て休講になったため、旅行三昧の1週間になる予定でした。しかし、水曜日に予定したラトビアの首都リーガへの旅行は雨降りのため行く気が起きず中止。金曜日から行けるはずだったロシア、サンクトペテルブルク2泊3日の旅も、ビザの申請に必要なエストニアのIDカードの発行が間に合わず断念。友人は皆ロシアへ行っているため、fuckin’ boringです。しかし、時間は無駄にはできない。幸いにも今日は快晴。取りあえずどこかへ行こうと思い立ち、標高318mを誇るエストニア最高峰!!"Suur Munamägi"へ行ってきました。

Tartuから南へ向かうバスに揺られること1時間半。Haanjaという小さな村で下車し、そのまま南へ車道を600mほど歩いた左手に"Suur Munamägi"への入口があります。"Suur Munamägi"とは直訳すると「大きな卵の丘」という意味。しかし、318mの高さといっても海抜318mであって実際に登る標高差はわずか62m。標識がなければ、「えっ、これ丘なの!?」っていうぐらい存在感がありません。頂上までは階段とスロープが延びていて、途中、木製の蜘蛛の巣、変な森の妖精、梟などのオブジェクトをところどころ見つけることができます。

頂上には真っ白な展望台があり、バックの青空とのコントラストが清々しい。この展望台は最初1816年に建設されたそうですが、当初は高さが足りず木々に展望を遮られてしまったために、その後4度に渡って再建設が行われ、1969年の改築で新たな階が追加され現在の29mの高さになりました。周囲50kmの展望を誇る展望台からの眺めはというと正直いまいち(笑)確かに気持ちのいい眺めですが、地理的な変化があまり見られないエストニアの土地を"Spectacular!!!"と形容するのもどうかなと……) 点で見ればエストニアも植物相や地理的特徴に富んでいるのでしょうが、空から一望する限り目に映るものは平らな台地とところどころに点在する湖のみ。あえてひねくれた評価をしてみましたが、何はともあれ、エストニア最高地点の土を踏みしめることができで満足です。10月ということで、木々も黄色や赤に紅葉していてとても綺麗でした。一面白銀世界となる冬に再び来てみたいと思います。

2009年10月5日月曜日

Taevaskoja




先週末を利用して、エストニアで最も美しい場所の一つと言われる"Taevaskoja"へ行ってきました。

二等辺三角形の形をした"Taevaskoja"のバス停には"WHERE THE SKY TOUCHES THE EARTH"の文字が。"Taevaskoja"とはエストニア語で「天の部屋」という意味で、どれだけ綺麗な景色が待ち受けているのか、想像を膨らませながら歩き始める。"Taevaskoja"は観光地と言ってもスーパーもカフェも何もないド田舎で、全くのノープランで来た僕はどちらに進めばいいのかも分からなかったのですが、ウロウロしている自分を見かけた人が家から出てきてくれたので、拙いエストニア語で場所を尋ね目的地の"Taevaskoja"へと辿り着くことができました。
"Taevaskoja"は"Ahõja jõgi"という川に沿って砂岩の崖が続く渓谷地で、"Suur(大きい) Taevaskoja"と"Väike(小さい) Taevaskoja"の二つに分かれています。初めに訪れたのは"Suur Taevaskoja"で、高さ40m、幅150mに渡り、いくつもの色に分かれた400万年前のデボン紀の地層を見ることができます。
川に沿って設けられた遊歩道を北へと進むと、次に訪れるのは"Emaläte (Mother Spring)"という泉で、洞窟の中から澄み切った湧水が流れだしています。この湧水で顔を洗うと永遠に若さを保つことができるという言い伝えがあるらしいですが、案の定、顔を洗い忘れました。
"Väike Taevaskoja"は高さ13m、幅190mの砂岩の崖で、"Virgin's Cave"という大きな洞窟があります。高さ5m、奥行き14mのこの洞窟にはブロンドヘアーの美しい処女がはた織りをしているという伝説があり、耳を澄ませばはた織り機の音が聞こえてくるとか.... 砂岩にはたくさんの穴が開いており、それらはエストニアの鳥"ツバメ"の巣として使われていて、大きい穴には"カワセミ"が住んでいるそうです。
川に沿って歩き続けると"Saesaare järv"という湖へと辿り着きます。70、80歳ぐらいのおじいさん達が湖岸に投げ出されたボートを陸に引き上げるのを手伝ったり、湖畔を散歩するお年寄り夫婦や家族を眺めたりして、ポカポカした太陽の下、1時間ほど何もせずに平和なこの土地に居られる時間を満喫しました。何もしないを楽しめる。そんな気持ちにさせてくれるこの"Taevaskoja"という土地が大好きになりました。
最初のバス停にあった"WHERE THE SKY TOUCHES THE EARTH"という言葉は、"Taevaskoja"の澄み切った水に映し出された青空を意味するのではないのかなと気付きました。幾層にも分かれた赤茶色の砂岩と木々の緑、地面に敷き詰められた苔の絨毯、天と地を染める青空に、数々の伝説。神秘の土地"Taevaskoja"の旅でした。

2009年9月29日火曜日

Northeast Estonia







先週末に行って来たエストニア北東部の旅について少々書きたいと思います。
最初の目的地はエストニア最大の湖"Peipsi järv"。ロシアとの国境にあり、1242年にドイツ騎士団とロシアのアレクサンドル・ネフスキー率いるノブゴロド公国軍が氷上の湖の上で戦った場所でもあります。湖畔の街Mustveeは、ロシア正教の支配を嫌ってロシアから逃亡した"Old Believers"が住む街でもあり、街中には彼らの教会も残っています。
次の目的地は"Kuremäe klooster (クレマエ修道院)"。エストニアで唯一のロシア正教女子修道院で、100人余りの修道女が現在も活動を続けています。2日間の旅を通してほとんどどんよりした曇り空でしたが、この時だけ青空が見えて綺麗な写真も撮れました。
道中、ソ連時代に建設された原子力発電所の廃墟にも立ち寄りました。この発電所自体は建設途中に放棄されたらしいのですが、これ以外にも工場の煙突、廃墟と化した工場、鉱山などを目にしました。エストニア北東部はソ連による占領期間に産業の中心として発展した地域であり、ソ連がエストニアに残していった"遺産"というものを直に感じました。さらに、昼食を取ったJõhviという街からはほとんどの人がロシア語話者。街の標識はすべてエストニア語で書かれているのにエストニア語を話す人がほとんどいないのです。Narvaの人口の95%がロシア人ということは知っていたのですが、実際にはエストニア北東部全体がロシア人に占領されているといった印象を受けました。
Narvaに到着したのは4時過ぎ。街の入り口前の道路にはロシアへの入国を待つ大量の大型トラックが列をなし、ひとたび街に入れば目に映るものは完全に同じ外見の集合住宅、煙草を吸う少年、昼間からビール瓶を片手に歩く男、正にロシアに対するネガティブなイメージそのままがそこにはありました。ロシアとエストニアの間を流れるNarva川の両岸には13世紀にデンマークによって建設されたNarva城とロシア側のIvangorod城が睨み合っていて、この地が歴史上デンマークやドイツ騎士団、スウェーデンとロシアの国境として重要な土地であったことが感じられます。両軍の兵士が砦の上で睨み合う、そんな場面が頭の中に浮かんでくるような、歴史的な重みがヒシヒシと心に伝わってきます。余談ですが、川沿いを歩いている途中、丘の上でこちらに手を振っているロシア人の子供たちに出会いました。話してみると、中学・高校生ぐらいの年頃で、日本のアニメが大好きで、日本人と初めて交流して興奮してるらしい。パソコンのアドレスを教えたので、その内メールなりfacebookで連絡してくることでしょう。改めて日本のアニメ文化がどれだけ世界中に知られているかを認識させらるとともに、一つの文化を通して異なる国籍の人たちが仲良くなれるという素晴らしい経験にもなりました。
2日目は再びNarvaを訪れ、Narva城内部の博物館や展望台を見学し、次の目的地"Valaste waterfall"へ。エストニアで最も落差の大きい滝で(30.5m)、流れ落ちた水はフィンランド湾へと注ぎます。Narvaで空を覆っていた分厚い雲も消え去り、道中目にしてきたソビエト時代の負の遺産を忘れさせるほどの、青い空と白い雲、広大なフィンランド湾と紅葉した木々の美しいコントラストを満喫しました。
その後、Kohtla-Järveという街の放棄された工場や、路線、鉱山などを見学し、最後は人の手で作られた"tech-hill"に登りました。丘と言っても30m程度しかありません。頂上から見える景色と言えば、延々と広がる野原と森林のみで、隆起した土地というものが全く見当たらない。これがエストニアの、延いてはロシア周辺部の特徴的な地形なのでしょう。まぁ、自転車で旅するのにはこれ以上ない土地ですが(笑)
こんな感じで旅も終わり、日曜日の夜にTartuへ帰って来ました。今回の旅で一番印象深いことはやはりロシアの影響の大きさですね。繰り返し書いて来ましたが、たくさんの工場、集合住宅、ロシア人。自分がいまエストニアいるとは到底思えない、それほどまでにロシア(ソ連)が残していったものの大きさを感じ、学んだ旅でした。言い方が適切ではないですが、自国の一部が他国の民族に支配されているようなこの状況を、エストニア人はどのように感じているのでしょうか?半世紀に渡ってソ連の支配を耐え忍びようやく手に入れた独立国家の中に、その敵国の住民が占領している街がある。Narvaという街、そしてエストニア北東部全体が、エストニアという小国の20世紀における悲劇的な歴史を象徴しているように思われました。
以上、エストニア北東部への旅でした。もっと書きたいことがありますがこの辺でやめときます。

2009年9月25日金曜日

Choir

久しぶりのブログです。この一週間、エストニア語の勉強もだいぶ進みました。一昨日の夜に開かれた、"Estonian National Evening"というパーティーでエストニア人の子と知り合いになり、さらに日本語を勉強しているエストニア人の友人を紹介してくれるということなので、日本語を教えつつ、こちらもエストニア語を教えてもらえるような関係が築ければいいなと思います。

ところで今日は、タルトゥ旧市街の"Jaani Kirik(St. John's Church)"へ"Estonian National Male Choir(男声合唱団)"のコンサートを聴きに行きました。合唱団の声が響き渡り、何か天使でも降臨してきそうな、荘厳な空気。中世の宗教がまだ生活に深く根付いていたころのヨーロッパを想像しながら、自分がいまその瞬間に居ると想像しながら、この素晴らしいコンサートを楽しみました。

明日からは、エストニア北東部に位置する街"Narva"へ1泊2日の旅行に行ってきます。Narvaはロシアとの国境に位置するエストニア第三の都市で、人口のなんと95%がロシア人!!大学でロシア語を一年間勉強しましたが、果たして役に立つかどうか、まして覚えているかどうかも定かでない.......

今回はハンガリー人の友達Danielの運転する車での旅になるので、道中いろいろな場所に立ち寄ることができ、前回とはまた違った旅を楽しめるかと思います。バスと徒歩での旅だとあまり広範囲で行動ができないので、車は便利ですね。僕の場合、免許も何もないので、"自転車"でエストニアを旅して回る計画を立てています。まぁ、それは当分先の話でしょう。これから寒くなり雪も降るから、春学期が終わった後の6月・7月になるかな。

帰ってきたらまた旅行記を書きます。

2009年9月17日木曜日

炒飯



炒飯作ってみました~(^O^)
初心者の割には上手に作れたかなと思います。ご飯を鍋で炊くこともできたし。
失敗はネギを買い忘れたことと、卵を入れた後にすぐにご飯を入れなかったために卵が固くなってしまい、卵を追加せざるを得なかったこと。
大学のことですが、授業登録が終わりました。僕が取っている授業は、
・"History of Russian Empire unitl 20th Century"
・"Historical Dynamics in European-Russian Relation"
・"Estonian Language"
だけです(笑)僕が取っている授業は全て、EU-Russian Studies という大学院生向けのプログラムで、学生のレベルや課題読書の量やエッセイも学部生には少し大変らしい。勉強したくないことの言い訳にしか聞こえないと思うけど、正直その通りです。もともとタルトゥ大学で勉強したいことなんてなかった。せっかくエストニアなんて辺境の地に来たのに机の上の勉強に時間を持ってかれるんじゃきっと後で後悔すると思う。一人旅とか博物館・美術館めぐりとか、日本で全くしてこなかったことを楽しみたい。大学の授業はほどほどにして、現地の人との交流を楽しみたい。唯一、エストニア語とロシア語の勉強だけは人一倍頑張るつもりですが。まぁ、そんな感じで秋学期は進んでいきます。
話は変わりますが、一昨日、この平和な町タルトゥにも「スキンヘッド」がいるという事実が判明しました。異民族に暴力行為を働くネオナチにスキンヘッドが多いためこう呼ばれています。これはルームメ
イトのTuomasから聞いた話ですが、フィンランド人の友人Villeがあるパブで飲んでいたところ、背後からいきなりスキンヘッドの男が殴りかかり鼻を骨折する怪我を負わせたらしい。何故フィンランド人が襲われたの?と尋ねたところ、彼が英語で話していたことに原因があるとのこと。さらにTuomasによると、タルトゥ大学で勉強している日本人の大学院生の方も1年前、スキンヘッドの男に襲われたらしい。
あぁ~怖い怖い。さっきいろいろ旅してまわりたいって言ったばっかりだけど、一人で外歩き回るのが恐ろしくなった(笑)それでもエストニア選んだのも自分の責任だし、スキンヘッドに囲まれてリンチされたらそれも自分の運命かな......

2009年9月13日日曜日

ぐ~たら



寝坊して始まった日曜日。帝政ロシア史の授業の課題読書があるのになんにもする気が起きません。


ルームメイトのTuomasが「ガキの使いやあらへんで」の「笑ってはいけない旅館in湯河原」の動画を見せてきたから、ついつい一緒に夜遅くまで大爆笑してしまった。なんで「ガキ使」知ってんだよ。。。


お笑いといえば、日本ではそろそろ「細かすぎて伝わらないモノマネ」が放送されるころでしょうか?エストニアにいてもこれだけは必ずチェックするんだろうな(笑)個人的には"ウクレレエイジ"に頑張ってほしいな。第1回の「七人の侍 志村喬」のマネとか(笑)


ところで、大学の友人から自炊の写真を見せろと言われたので、親子丼作ってみました。


自炊に限らず全てが初めてのこの留学生活は失敗だらけですが、やはり今回も失敗。だし汁の量が多すぎて卵が汁の中に沈んでしまうし、鶏肉にはレモンの味がついてるし、半熟とろとろの親子丼にはならず。まぁ、それでもおいしかったです。なんかこっちの卵は黄身が白っぽくて、食欲をそそる黄色にならない。


K君。自炊初めはこんなもんでしょうか?


また明日から授業です。生活を立て直して、有意義な1週間にしようと思います。

2009年9月12日土曜日

Viljandi























 Viljandiから帰って来ました。本当にきれいな街でした。
 朝5時45分のバスに乗って、霧に包まれた道路を行くこと約1時間。Tartuから西に80km離れた湖畔の街"Vilijandi"に到着。バスターミナルから南へ真っ直ぐ歩き、真白のいかにも教会らしい"St. John's Church"を左に見送って丘の道を歩いて行くと、吊り橋(Suspension Bridge)が見えてきて、その先にチュートン騎士団の要塞跡が待っています。朝早く到着したおかげで、眼下に広がるViljandi湖から湧き立つ雲のような霧とその先に光り輝く太陽の絶景を拝むことができました。一緒に行った香港の留学生Eugeneがカメラについて詳しかったおかげで撮り方の基本を教わることができ、いくつか綺麗な写真を撮ることができた。3つ続きの丘の上に立つこの要塞にはもともとエストニア人の要塞があったのですが、13世紀ドイツ勢力との闘いの末に陥落し、新たにチュートン騎士団の要塞が建設されました。Viljandiはその後、ハンザ同盟に加入し、交通の要衝として栄えたようです。
 要塞を後にし、"Kondase Keskus"というアート・ギャラリーへ。Paul KondasというNaivistの作品が展示されています。Naivistとは美術教育を受けず、独学で絵を描き始めた人のことを指すらしく、Kondasも50,60歳を過ぎ教師を退職した後に絵画を始めたそうです。肝心な絵は、やはり正規の教育を受けていないから子供の絵のよう。腕がマカロニのようにグニャッとしていたり、子供が書く両親の似顔絵のような顔など。しかし、とても丁寧に描かれていて、何よりもユーモアがあって良い。Viljandiに行く人は是非このギャラリーを訪れることをお勧めします。案内の人はとても丁寧に、ゆっくりと、熱心に説明してくれる。ところで、ここViljandiの町では大きなイチゴのモニュメントが散見されるが、その理由は、Kondasの"Strawberry eaters"という作品から来ているらしいです。
 その後、30mの高さの"Old Water Tower"に登りました。展望台からは360°の大パノラマが広がり、街並みや湖はもちろん、周囲の土地まで見渡せました(当然、森と草原のみ)。ただ、塔の中は小さな羽根虫だらけ。エレベーター建設のための寄付金を募っていましたが、虫の駆除と侵入防止に使うべきですね。
 "Water Tower"の通りの東には湖へ下る階段が続き、テニスコートやサッカー場などで子供達が遊んでいます。ここにマラソン選手の像がありました。「"Huberto Pӓrnakivi"。Viljandi湖マラソン11大会連続優勝の記録を持つ。」とあります。ワールドクラスとありましたが、世界大会での記録に関する記述は一切ない、ローカル・ヒーローです。湖では1時間50EEKでボートを借りて、湖上でのほほ~んとしました。湖から見ると要塞の立つ丘の特異な地形がはっきりと分かります。3つ並びの台形の丘と急斜面の谷、要塞が賢固を誇ったことが容易に理解することができます。
 その後、街に戻って赤レンガの"St. Paul's Church"を写真に収め、夕日の写真を撮るため18時ごろに再び湖へ。ボートを借りて撮影ポイントへ移動し、ボートの上に寝っ転がってEugeneと語り合いながら日が沈むのを待ちました。が、なかなか太陽が沈まない。エストニアは9月になっても日没は20時頃。結局、日没直後の真赤に染まった空と湖を写真に収めることはできず。さらに充電し忘れたカメラのバッテリーがついに切れてしまう悲劇。まぁ、仕方ない。一日中歩き回ったので疲れ果て、すぐに眠りに落ちました。
 2日目。朝8時起床。当初、朝5時に起きて、昨日と同じ要塞跡から朝焼けの空と湖を眺めにいく予定でしたが、目覚ましが鳴っても疲れで起きる気分にならず、どうせバッテリーも切れてるし、ってなわけで2人とも寝坊。今日は志向を変えて観光地には行かず、普通の家が並ぶ住宅街を散策。バルト風の家、ギリシャ建築とバルト建築が混ざった家、湖へ延びる急坂に立ち並ぶカラフルな家々、静寂に包まれた通り。街の中心から離れたところを散策する楽しみを味わいました。ほとんどの家には大きな庭があって、子供たちが遊んでいたり、大人は庭に生えるリンゴを収穫していたり、とても平和な空間。エストニア語をもっと勉強して、ただ写真を撮るだけの旅に現地の人々との交流を付けくわえられるようになりたい、と思いました。
 再び要塞跡を訪れ絶景を眺めながら昼食。14時から'St. John's Church"でコンサートを鑑賞する予定でしたが、湖の対岸を眺めているうちに向こう岸には何があるのか気になり、Eugeneに無理を言って計画を変更。ただ、何とビックリ、彼が自転車に乗れないことが判明し、延々歩いて対岸を目指すことに。対岸の森の中はハイキング・トレイルが延び、森の横には麦畑が広がっていました。Viirastiという街にも入りましたが、人も歩いていないし、何にもなさそうなのですぐに出て、Viljandiの街へ戻り、これ以上散策する気分にもならないということで15時半のバスでTartuへ帰りました。
 総じて、エストニアで初めての旅ということで全てが印象深く、全てが素晴らしい思い出でです。旅の計画に乗ってくれたEugeneとの仲もきっと深まったと思う。一つ残念なことはエストニア人と交流ができなかったこと。せっかく旅をしても留学生同士の仲間内で観光名所だけみて帰るんじゃもったいない。一人で旅をして、現地の人々と彼らの言葉で交流をする。そういう経験をしてみたい。その為には勉強あるのみ。目的があれば勉強もはかどる。今回の旅で、エストニア語で料理を注文してみたらちゃんと通じた。小さなことでも恥ずかしがらずに喋ってみて、少しずつ上達していければいいと思う。一年後に一人でエストニア中を旅して、エストニア語でエストニア人と交流をしている自分を想像して、勉強に精を出そうと思います。
 以上、Viljandiへの旅行記でした。

2009年9月10日木曜日

Toomkirik







今日は、タルトゥ大学本館の裏手、トーメの丘に位置する"大聖堂"(Toomkirik)へ行ってきました。この大聖堂は毎日語学のクラスの建物に行き来するときに通るのですが、まだ中に入ったことがありませんでした。聖堂の東側はタルトゥ大学歴史博物館、西側は展望台となっており、展望台への入場料は学生15EEKです。
塔の入口には、本を読んでいるおじさんが毎日座っていて、チケットの有無を確認します。大聖堂の中に入ると、ほのかな灯りに赤レンガの通路が照らされ、なにか宝探しをしているような気分になります。西側の塔はさらに南北に分かれており、南塔は大聖堂の歴史を記した展示品、北塔は屋上が大きな展望台になっています。

この大聖堂の建設は13世紀、エストニアが外国勢力に征服された後、タルトゥを管轄した司教の命令により開始され、15世紀に完成しました。しかし、16世紀、ルターによる宗教改革の影響によりカトリックのこの建物は(たぶん)闘いにより廃墟と化し、もともとは66mあった塔も、現在ではわずか20mあまりになってしまったそうです。塔内部の展示品の説明を思い出して書いているだけなので、かなり適当な説明です。スイマセン。
展望台から見るタルトゥ旧市街の町並みを期待していましたが、手前の木に阻まれ教会の尖塔しかみれませんでした。それにしてもエストニアはどこを見渡しても緑で覆われていますね。首都タリンからタルトゥまでもそういえば何もなかった。国土45,227平方キロメートルのうち、半分近くの20,155平方キロメートルが森林で覆われている国ですから仕方がない。南方には少し盛り上がった土地が確認できたので、あれがエストニア最高地点(わずか318m!!高尾山より低い!!!)のSuur Munamӓgi(スール・ムナマギ)かもしれません。エストニアに来て初めて自分が写った写真を撮りました(GAFSの皆さん、僕は元気です!! 体重は2kgも減りましたが....)
明日から1泊2日でエストニア南部のViljandiという街へ旅行してきます。ドイツ騎士団の要塞などが残るとても綺麗な街だということなので、とても楽しみです。現在、外は雨ですが明日は晴れることを願います。