2009年12月31日木曜日

Venemaa !!




ロシア旅行より帰国しました。

視野の狭い僕の身に、あまりにもたくさんの新しいことが降りかかったため、10日間の長旅を終えて心身疲労困憊のため、そして、1月3日から始まる中欧旅行までの間にすることがたくさんあるため、この旅行を上手にこのブログにまとめるのはとても難しいのですが、詳細よりも旅行全体を総括して感じたこと、新たな発見・出逢い、そういったものに焦点を当て、いくつかの項目に分けて書いてみようと思います。

-Language Barrier-
朝7時に到着した僕らを出迎えてくれたものは吹雪。出鼻から苦難の予感。それを証明するかのように、そしてロシア人について話をすると必ず言われるように、誰一人としてまともに英語を話さない。旅行のパートナー Daniel も僕もロシア語はいくつか単語を知っているだけ、露英辞書もない。最初に見つけた英語を話せるロシア人は駅でSIMカードを売っている50代ぐらいの男性。これは偶然だと思いますが、この旅行中に出会った英語をある程度話せる人の半数は若者ではなく、中年かお年寄りの人々(笑) 列車やバスの切符を買う際にこちらがロシア語をまともに話せず意思疎通ができないと分かるといきなり逆切れしだすオバサン切符販売員たち。単純に英語の能力という観点からだけ見てみれば、状況は絶望的だと思いました(笑)

-People-
そんな言語の壁の存在にも関わらず、そして、僕の持っていた偏見とは正反対に、ロシア人はとても親切。人種差別、外国人に対する襲撃事件、汚職まみれの警官、ネガティヴな情報ばかりを心配していた僕には新鮮な驚きでした。親切と言っても、誰もがニコニコ笑顔で接してくれるというわけではありませんが、外国人とみて話すのを止めたり、態度を変えたり、しかとされたりするということは滅多にありませんでした。むしろ向こうから積極的に話しかけて来る人も多く、極寒の地に住む人々の心の温もりを確かに感じました。一つ聞いた話ですが、サンクトペテルブルクが文化的首都で人々もより寛大であるのに対し、経済的首都であるモスクワの住民は生きるため、金を稼ぐためにより攻撃的でピリピリした空気を持っているらしいです。真偽のほどは来年確かめてみたいと思います。

-St. Petersburg-
ピョートル大帝治下の1703年に建設が始まった帝政ロシア期の首都。「ヨーロッパへの窓」と言われるだけあって街には西欧風の豪奢で巨大な建築があふれ、ロマノフ王朝の宮廷文化の程を感じる。街を流れるネバ川は凍っていて、海から吹く風が身に凍みる。エルミタージュ美術館、王立科学アカデミーなど、文化財産がたくさん保存された場所を訪れたが、いずれも長旅の疲れとロシアの冬の寒さに体力を奪われ、睡魔に襲われつつ見て回ったのでよく覚えていない。とても綺麗な街だったけど、冬の寒さと陰鬱さに華やかさが奪われてしまっていたことと、その後の北極圏での思い出のために、ペテルブルクでの記憶はうっすらとしかありません。来夏にまた来ます。
-On train-
人生初の海外列車の旅。駅では写真撮影が禁じられていることを知っていながら隠れてカメラのシャッターを切りまくる Daniel にオロオロしつつ乗車。車両の外部は雪で覆われ凍りついている。車内は日本のブルートレインのように4つの寝台が取り付けられたコンパートメントが並び、狭い通路とそれに沿ってさらに2つの寝台が通路脇にある。この旅行を通して最も印象深かった記憶の一つは列車でのロシア人との交流。年の暮れに北極圏へ進路をとる外国人旅行者に注意が注がれないわけもなく、お互いの出身国、行き先などを話し始め、ペテルブルクで買ったウォッカを一緒に飲む。同じ年ごろの若い女性や、中年の男性、60, 70代ぐらいのおばあさんや、はたまたソ連時代のスカイダイビングの代表選手だった女性まで、いろんな人と出逢い、言葉を交わすことができました。ロシア人の温かさに触れたことはこの旅で得た財産の一つです。

-Apatity and Kirovsk-
列車で辿り着いた最初の北極圏の街。コラ半島の中心に位置し、豊富な鉱山資源で有名な地。特に Kirovsk にある Khibny山塊はスキーリゾートで有名な街だそうですが、僕らが訪れたところは鉱石博物館、未完成の駅舎、廃工場(笑) 街の人には皆「スキーしに来たのか」と尋ねられましたが、上記の目的地を伝えると彼らの顔には苦笑いが浮かぶ。それを見るたびに、「あぁ、"冬"に"北極圏"へ"Daniel"と来るのは間違いだったな」と思わずにはいられなかった。それはともかく、「平べったい国エストニア」に4カ月住んで起伏のない地形に目が慣れてしまった僕にとって、降雪と雲で頂上の視界を覆われていたとしても、本当の「山」を見れたことは救いでございました。最後に Apatity での最大の思い出は、26日朝8:13発の列車へ宿からダッシュしたこと。バスケ部を引退して2年以上、まともな運動から遠ざかっている軟弱児の体にとって、重い荷物を背負ってのあの「駆け込み乗車」は北極圏の寒さ以上に身に堪えた。

-Murmansk-
北極圏、最大の街であると同時に唯一の不凍港を持つ。港に並んだたくさんの船と積み荷を運び出す大型クレーン、両湾岸からなだらかに伸びる丘とそれに沿って並び立つソビエト的な集団マンション。丘の上には第二次世界大戦でドイツ軍に対して街を守るため戦った名もなきソ連兵への記念碑が建つ。 Daniel から旅行の話を聞いたときは、ロシア軍隊の閉鎖地区だの原子力潜水艦だの物騒な単語しか彼の口からは出て来ず、正直、Murmansk には行きたくなかった僕ですが、すっかりこの街が好きになってしまいました。雪原の大地、轟々と機械音の唸る港、11時に夜が白み始め、その明るさのまま太陽を見ることなく、昼の3時に夜が来る北極圏の冬、-28度の凍てつく、澄み切った夜空に浮かぶ神秘的に美しい半月。全てが同じで退屈で陰鬱なソビエト的な建築もこの環境においては美しく見えてしまう。

-Couchsurfing-
今回の旅行では全ての宿泊地で couchsurfing をしました。St. Petersburg, Apatity, Murmanskの3つの街で宿泊させてもらいましたが、最も印象深いのは Murmansk でのホスト、Katya とその友人の Andrew。最初の晩は、サイコロ版ポーカー、ウォッカの乾杯、シナモン一気食いで大いに盛り上がり、Murmansk での最後の晩は、車で街のあらゆるところに連れて行ってくれた。ハイライトはスキー場の丘から見た、眩く輝く満月が作り出した「優しい光の輪」とその光に答えて控えめに青白く反応する大地の白。その場にいる誰もが言葉を失い、ただただ、北の大地が生み出した「神秘の光」に心を委ねていた。オーロラを見たいと思っていたが、その期待を凌ぐ、美しく、素朴で、謙虚な光を目にした。そしてその場へ僕らを導いてくれた2人のロシア人の心の火。そしてもちろん、彼らに出逢えたのはこの couchsurfing というコミュニティーがあってこそだということは否定できない。文化と文化、人と人との垣根を越えて、お互いの間に存在する偏見を狭めていく。世界を知り、己を知り、人生をより楽しく可笑しくしていくことができる。そういう可能性を持ったこのシステムをより多くの人に是非1度は試してもらいたいなと思います。

-Daniel-
最後に旅のパートナー Daniel について。この旅行中、彼の危険を顧みない行動、異なる感性、文化の違い、意見の衝突と僕の未熟さのため、幾度か冷戦関係に陥りました。10日間食事から宿まで、ありとあらゆる生活を共にしたため、食文化なり、行動作法なり、様々な文化的側面の違いがはっきりと表れた結果による、想像以上のストレス。彼の放浪者の性分が原因であろう、あらゆるものの値段に文句を付けることで、お互いに共同品や旅先の妥協点が見つからないこと。英単語の発音に逐一文句を付けること(RとLの発音の違いなんて分からん!)。大晦日までに帰る予定を急に変更しようとすること。いろんな面でストレスを感じ、道中、彼をどれだけ憎たらしく感じ、この旅の計画に頷いてしまったことを後悔したことか。だが、そう感じてはいつつも、Daniel が小さな面で僕への気配りを忘れないこと、旅を「2人」で楽しもうと努力していること、そして放浪者のあきれるまでの豪快さと底なしの明るさ、そういう姿に自分の矮小さ未熟さを恥じ、次第に彼のことを心から信頼できるようになった。18歳から1人でヨーロッパを旅し始め、モルドヴァでは2回逮捕されたこともあるという根っからの旅好きである彼と旅をしたことで、いろいろな「旅の知恵」も学び取ることができた。最後の最後まで彼にはハラハラさせられ、幾度となく不仲⇔仲直りを繰り返したが、25歳の兄貴分に鍛えてもらったことで、1月のヨーロッパ旅行を更に充実したものにできるかもしれません。

-Other-
フィンランドには行きませんでした。何でって?Murmansk からフィンランドの Rovaniemi までのバスが高いと Daniel が文句を付けたから(笑)それと、愚かなことに、僕が Apatity でのホスト Dmitry の家に携帯、カメラの充電器を置き忘れてきたために、来た道をペテルブルクへ引き返さなければならなかったのです。朝5:25分、クズ日本人のために Apatity駅までわざわざ届けに来てくれた Dmitry 、本当にありがとう。頭が上がりません。充電器が無かったために、Murmansk でのハイライトを写真に収めることは叶いませんでした。

以上、なんだかんだ、だいぶ長々と書きましたが、僕が強調しておきたいことは街の描写よりも、新たな人との出逢い、ロシア人に対する認識の変化、そして Daniel との友情です。

あと4時間ほどで年の明ける大晦日のエストニアより。

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