2010年3月9日火曜日

Kahekümneaastane

はぁ~、とうとう二十歳になってしまった。

数日前までは「日本に帰りたい病」に苛まれていたが、20代の大台に乗ってしまった今は、「10代に帰りたい病」が心の中で暴れている。

2度と戻らない、あの青春の日。

例えそうであっても、青春の「火」だけは心に絶やさず灯しておこう。

いくつになっても、純真な冒険心を忘れずに。

2010年3月6日土曜日

Jaapani öö


春が来たと思ったら、また寒くなる。

一度解けだした雪が再び凍って道はグチャグチャのデコボコ。そんな3月の頭に、スロヴェニア人の友人の依頼により、地元NGO団体 "Domus Dorpatensis" の文化イベント "Meet the World: Countries from inside and outside" にゲストスピーカーとして参加する機会を頂いた。

今回のイベントは、焦点を日本に当て、タルトゥ在住の日本人と日本在住・留学経験のあるエストニア人の2人をゲストとして招き、インタビューを通して日本という国を内外の視点から議論・理解していこうという目的。タルトゥ在住の日本人交換留学生は今のところ自分だけのようなので今回招集されることに相成りました。もう一人のエストニア人は、僕の友人で日本格闘技を習い、現在タルトゥで日本文化の普及に貢献している Reedik さん。

人前で何かを話すのは苦手なチキンハートだから、当日に50人近くの聴衆を目の当たりにした時はちょっと凍った。大学生に限らず、50,60代のおじいちゃん、おばあちゃん達までもが会場の小さなセミナールームに集まり、「エストニアの頭脳」と呼ばれるこの街の住民の学習意識に感心しつつ、日本という国がこれほどまでに人々の関心を集める国なんだなと改めて実感した。

肝心のイベントの方はと言うと、僕の方は、「エストニアを留学先として選んだ理由は?」「日本の大学は難しいと聞くけど、大学・学生全般の実態は?」などの質問や、「敬語」「お辞儀」など日本独特の文化、カラオケ、ゲーム機、ハイテクトイレなど、日本のモダンな文化について、退屈にならないように時折ジョークを交えつつ、拙い英語でなんとか説明する事が出来た。特に、日本の大学生のサークル活動や、高校の部活動、消臭や便座を温める機能の付いた日本のトイレの話では皆興味深そうに聞いていた(そして笑いも取れた)。Reedik さんの方は、やはり空手や柔道などの格闘技を中心に話してくれて、僕はそっちの世界については全く分からないから聞いていて学ぶ事もあった。

企画的には、予測をはるかに超える数の聴衆を集めた事、参加してくれた友人皆が面白かったと言ってくれた事など、イベントが成功してくれて嬉しい限りだ。個人的には自分の身の回りの事以外日本について上手に説明できない自分の無知さに恥ずかしい限りだが、たぶん参加者にとってはインターネットで手に入るような情報とは違う生の体験・意見を聞く事が出来てとても貴重な時間になったと思う、というかなってくれていれば嬉しい。

成功・不成功に限らず、今回の経験で日本の文化、学生の生活、礼儀・作法などを紹介することに大きな楽しみを見出すことが出来た。エストニア語の勉強は楽しいけど、大学での授業ばかりの生活に虚しさを感じ始めていたこの頃だったから、冬の部屋の空気を入れ替えるように、息の詰まるような重たい気持ちが新鮮な風に押し流され、今僕の心はあらゆる種類の意欲で溢れ返っている。

2010年2月27日土曜日

Kevad tuleb.

春はもうすぐそこに。

最近、散歩していると街の様子に微妙な変化がある。

雪が少なくなっている。何も考えずに歩いていたら気付かない程度ではあるが、道路脇に積み上げられた雪がここ4,5日の間に徐々に消えていってる。

今の気温はたったの0度。外に出たらなんと「雨」が降っていた。週間予報を見ても、この先下がってマイナス5度程度。

あと2日で3月。春の足音はここタルトゥにも確実に近付いている。日本人の心の花、「桜」は今年はお預けだろうか?

雪解けの季節。今日、ルームメイトが部屋を去っていた事で、彼に対していろいろとストレスを抱えていた僕の心の緊張もようやく解け始める。

3月と言えば、僕の誕生日。地元NGO主宰の、日本文化についてのディスカッション、エストニア・ラトヴィア国境にまたがる街 Valga の学校訪問など、イベント目白押しの3月。

僕の人生が始まった月だけあって、新しい物事の始まりや新たな人の出逢いに胸をふくらます。

でも、桜が見れないのは堪える。『あ~、日本に帰りたい。』

2010年2月25日木曜日

Taevas


ずいぶん前に「寄り道」がなんだのと書いた事があるが、時期が12月頃だっただけに授業終わるころには外は暗闇で結局街を散策できてはいなかったんだけど、冬至から2カ月が経ち、太陽が地平線の上に顔を出している時間もだいぶ長くなってきたので、再び寄り道帰宅を始めることにする。

今日は道中何か特別なことを見つけることはなかったが、冬の青空に伸びる幾筋もの雲がとても綺麗な1日だった。
こういう何もない1日でも、空が綺麗なだけで充実した気分になる。

2010年2月24日水曜日

Eesti Vabariigi aastapäev


今日、2月24日はエストニア共和国の独立記念日。


久しぶりに朝早く起きたので午前中2時間ほど街を散歩して回ったが、大学や市の建物、一般の民家にも、青・黒・白のエストニア国旗が掲げられていた。

近頃は気温もマイナス5度~8度ほどにまで下がってきて、マイナス20度以下を毎日のように体感した1月に比べれば屁でもない。いま、日本の気候はどうなのだろう。おそらくもう春の陽気に包まれていることだろう。

そういえば、ちょうど1週間前でエストニアに渡ってきて半年になる。新たな友人が出来るたびに繰り返される「何でエストニア来たの?」という質問に答えながら、この北の地へ辿り着いた自分の決断がいかに捻くれていたか、今さらながらに思い返してみる。

「日本人がいないから」。ただそれだけの理由。そんなこと言ってる割に、ここ2カ月全く日本語を話す機会が無い事を嘆いている自分を反省しつつも、やはり、怖いもの知らずで、というより無謀にもエストニアを留学先とした自分の決断は間違ってなかったと思う。

エストニアを南米の国だと思っていた友人がいたように、エストニアの認知度は低い。自分もエストニアは旧ソ連圏という事もあってロシアの様な国だと思い込んでいたし、ほとんどの日本人がバルト3国を一括りにして考えていると思うが、実際のところ、言語も部族も、文化も、国民性もそれぞれ異なる。

そんな未知の世界に飛び込んでみて、彼らの辛く暗い歴史に触れ、魔法のように美しい四季を目に焼き付け、歌を歌うように美しく響く言葉を毎日のように耳にし、それを学ぶ機会を得る、そんな経験ができていることに感謝するし、そんな経験をさせてくれるエストニアという地を素直に大好きになる。

そんな夢物語も残すところあと4カ月。2週間後には遂に10代捨てなければならない。

またも話の要点が分からなくなったが、とにかくこの国に居られる事の喜びを常に噛みしめて、1日1日前進していこう。

そんな考えが楽観志向で満たされた頭をふとよぎった、エストニア共和国92歳の誕生日でした。

2010年2月21日日曜日

Suusatamine

膝が痛いです。

今日、人生初めてスキーをしました(笑)

といっても、丘の無いエストニアでは(一応、南の方にちょこちょこあるが)スキーと言うとクロスカントリースキー。雪が斜めに吹き付ける悪天候の中、寮から徒歩20分ほどの"Tähtvere"という公園にて1時間ほどスキー靴と板をレンタル。

初めてだけど余裕だろと舐めてかかっていたが、スティックと板が引っ掛かって転ぶは、後ろに重心かけて転ぶは、スロープでスピード出し過ぎて転ぶは、転倒三昧。一緒に行った友人のほとんどがスキー初体験だったので、自分だけ恥ずかしい思いをする事はなかったのが救い。

エストニアに来て初めてまともな運動をしたから、もう疲労感た~っぷり。このままだと、半年後日本帰る時はボヨボヨになってるんじゃないかと心配だ。

スキーは大変だけど、やっぱスポーツするのは楽しいし、このまま素人のまま終わるのも癪なので、また挑戦しよう。

上の写真は街の中心を流れる、Emajõgi 川の上にて撮影(ただの道ではありません)。12月ごろから完全に凍っていて、川を歩いて渡ったり、スキーすることもできる。皇居の池に氷が張っただけでニュースになる東京とは大違い。これが雪国。

2010年2月12日金曜日

võõrkeeled

「日本に帰ってから役に立つの?」

必死にエストニア語を勉強している僕に向かってルームメイトが放った非情の一言。

将来エストニア語を使った仕事をするために勉強しているわけではなく、単純にこの留学期間、エストニアの文化・生活に溶け込みたいと思って勉強しているだけだから(エッセイを書かなくていいという理由が主)、そんな指摘は意にも介さないが、以外にもエストニア語がエストニア語を母語としない人の共通言語として役立ったことがあった。

エストニア語インテンシブコースにハンガリー人の女の子が3人いて、授業中ペアワークなどで話す事が多いのだが、昨日、授業前に英語で話しかけたところ "Ma ei oska inglise keelt.(英語話せません)" と返された。

これまでの経験でヨーロッパの人はみんな、特に教育を受けている若者は(ロシア人を除いて)みんな英語がある程度話せると思っていたから、軽い衝撃。

もちろん、第二外国語はもとより六年間学んできた英語すらまともに話せない日本人とは違って(僕もその一人でした)、彼女らはイタリア語・ドイツ語・ポーランド語などを第一外国語として選択してそれらの言語は完全に習得しているので、単に英語を選択しなかったというだけの話だが。

エストニア人の場合、大国ドイツ・ロシアに挟まれている関係で老年層はドイツ語・ロシア語のバイリンガルは当たり前、若年層も英語はもちろん、ドイツ語・ロシア語が話せる人が多いように思う。

エストニアの様に、個々人の言語習得意欲に関係なく、国の規模、歴史のために第二、第三外国語の習得が当然と考えられる国が存在するという事は新鮮に驚き。島国でない国々、特にヨーロッパのように狭い地域にたくさんの国がせめぎ合ってるような地において、歴史・地理が個人の学習・生活に与える影響を考える機会になった。半年もヨーロッパに住んでいて今さら驚いてブログに書くような事でもないけど。

そして何より強調しておきたかった事は、エストニア語が役に立った。

2010年2月10日水曜日

Ameeriklased

春学期が始まって3日目。

留学生の数も秋に比べて格段に減った。

そんな中1つ気付いたのだが、今学期はアメリカ人がやたら多い。団体協定があるのだろう、今日の「エストニア文化」の授業の半数はネブラスカ州からの留学生で占められた。

前学期はドイツ人留学生で溢れ返っていたが、

アメリカの侵略(笑)

2010年2月9日火曜日

Eestimaa

最近、浮足立っている。

今日、エストニア語文法の授業でエストニアを紹介したDVDを見た。スクリーンに映し出された約1時間半の映像が、近頃、旅行計画で一杯の僕の頭を正しいところに引き戻してくれた。

12, 1月のロシア・中欧旅行で世界に対する好奇心がさらに強まり、冬休み中は新たな旅行計画の作成に没頭。春学期は休暇があれば旅行、休暇が無くても旅行のつもりだったが、やっぱりエストニアの自然や文化、そういったものを強調されるとどうしても抗えない。

春にアイルランドとギリシャに1週間ずつ行こうと思ってた。どちらの国も変化に富んだ地形やとてもユニークな文化を持っていて、その点においてエストニアは知名度的に全く劣る。

それでも、エストニアに僅か半年ではあるが住んでいる身として、研究しているわけではないがこの国の持つ自然や文化を肌で感じる事が出来る立場にある身として、周りの国に目を奪われて、日本に帰った時にエストニアの事を何もしらないというのは恥ずかしい。

そんなことを考えてみて、学期中の旅行計画はアイルランドだけに絞り、もっとエストニアを旅してみようと思う。せっかく自転車も友人から譲り受けたことだし、週末にちょくちょくサイクリングに出かけよう。ある場所に長居すればその土地が自分のものになって、全てが当たり前の風景に変わってしまうけど、時にはレンズを入れ替えて当たり前だったものを詳しく観察してみる努力も必要かな。

世界旅行のために留学に来たわけじゃない。せっかくヨーロッパに居るのに周りの国に行くチャンスを逃すのは残念だが、エストニアで暮らすチャンスの方が限られてるだろう。

とりあえず、もう1度初心に戻ります。

よろしくお願いします、エストニア。

2010年2月8日月曜日

kevade semester

日本ではここ最近、朝青龍の引退やら、大雪やら、小沢さんの不起訴やら何やらで話題には事欠かなかったようだが、それとは正反対の話題もない、話す人もいない、勉強する気もないという、エストニアでの魔の1週間にもようやく夜明けが訪れ、今日から晴れて春学期が始まった。

秋学期と比べると、留学生の数はめっきり減ったように思われ、連日パーティー三昧だった我らが留学生寮 "Raatuse 22" も一向に冬休みの低調さを引きずっている。

今学期のエストニア語学習は全てインテンシブコース。文法の授業が週4回、会話の授業が週3回。受講生も少なく、クラスには、すでにエストニア語を2~3年間勉強した人、エストニア人と婚約している人、エストニアで働いている人など、前学期の楽に単位を取るために登録して授業はロクに来ないようなチャラチャラ留学生とは全く違った顔ぶれが並ぶ。

先生もゆっくりと分かりやすく話してはくれるがほぼエストニア語で通してくる。1ヶ月間の旅行でロシア語・ドイツ語が頭にこびり付いてエストニア語をだいぶ忘れかけていたために、「ん~、これはキツイかな」なんて思いもしたが、もちろん基礎歩的な語彙を使っての話しだが、以外にも結構スラスラと話せている自分に気付く。いやはや、9, 10, 11月の呆れるほどの努力は無駄ではなかった。休暇中も頻繁にエストニア語で facebook にメッセージをくれた友人にも感謝しつつ、今学期はさらなる精進に励みたい。

それと、早稲田で1年勉強したロシア語の勉強も再開しようと思う。1カ月ブランクがあったエストニア語以上にロシア語の記憶は微かなものだが、スーツケースの重さの1/5ぐらいは占めていると思われるロシア語参考書・辞書を無駄にしないためにも、エストニア語と並行してロシア語学習にも励もう。

秋学期は、最初は飛ばしたが後半ガス欠+いつもの飽きが来て全てが中途半端でポイ捨てされてしまった感がある。そこは素直に反省し、「継続」の大切さを心に留めて、残りの5ヶ月間を有意義に、そして楽しく過ごそう。

Kordamine on tarkuse ema.

2010年2月1日月曜日

Travel around Europe


1週間前に長い長いヨーロッパ旅行から帰っていましたが、疲労のため、経験してきたことの消化不良のため、そして怠惰な性格のため、ようやく更新です。
とにかく疲れた!3週間は長すぎる。ロシア旅行は精神的にきつかったが、今回は体力的にも途中からだるくなり、オーストリアのウィーンなんかは、曇天も合い重なってほぼすっ飛ばしてしまったようなところもありました。

-Germany-
・Köln - ゴシック様式の有名な大聖堂。旅の出発点。
・Aachen - ん~、特にない。ゆっくり見て回る時間もなかった。
・München - ドイツ南部最大の都市で、ビールの街。ここのゴシック様式の市庁舎は圧巻の一言。今まで見た市庁舎の中では最も派手に装飾されている。因みにタルトゥの市庁舎は世界で最も可愛い市庁舎だと思う。
・Füssen - あの有名なノイシュヴァンシュタイン城を拝んできました。危険区域の看板を無視して山を登ったりもした。
・Berlin - 生まれて初めて見るベルリンの壁。この壁が東西冷戦の終結期に壊された時、自分はまだ生まれてもなかった。

-Austria-
・Salzburg - Sound of Music で有名な街。しかし、Sound of Music tour は 37€ もするため諦め、自分の足でロケ地を訪ねようとするが迷ってお手上げ。
・Wien - ハプスブルク家の宮殿など華々しい首都像を描いていたが、灰色の空に加え、日曜日で人が見当たらず、店も開いてなく完全なるゴーストタウン。シェーンブルン宮殿にも言ってはみたが入場料高いは、たいして綺麗じゃないわで、そうそうに退散。

-Liechtenstein-
・Vaduz - オーストリアとスイスに挟まれた豆粒ほどの公国。インフォメーションセンターの受付嬢が一国の首都を"村"と表現するほどに小さい。ここでも空模様は好転せず、アルプスの谷間に位置する美しい村々も目にすることが出来ず仕舞い。

-Switzerland-
・Bern - 言わずと知れた高物価の街。ここである男性にホステルまでの道とスーパーがどこにあるかを尋ねたところ、逆に「日本人か!?」と尋ねられ、「そうだ」と言うと、「俺は日本の秋葉原で1年間働いたことがある。」「今日は土曜日、スーパーはもう閉まっている(7時半)からレストランに案内してやろう」って感じで超高級そうな日本食レストラン"歌舞伎"へ連れて行かれ、「金が無いので無理だ」と断ると、なんとなんと、店員に向かって「俺の友人だ。この金で美味いもの食べさせてやってくれ」と130スイスフラン(=約12,000円!!!)を手渡して行ってしまった。スイス人どんだけ金持ちなんだ(笑)目の前で起きたことが未だに信じられないままメニューを開くと「天ぷらうどん31スイスフラン(=約2,700円)」。!?!?!?!?
・Interlaken - スイスアルプスの有名な Eiger, Mönch, Jungfrau を登るユングフラウ登山鉄道。往復料金13,600円という法外な料金を払って半年ぶりに見る「山」を堪能。因みに "Top of Europe" と呼ばれ、標高 3,454m に位置するユングフラウ駅には日本の郵便ポストがあった。ここから叔父にポストカードを送りました(笑)他の友人にも送りたかったけど住所知らん.....
・Zermatt - ここに来たのはただ個人的に Matterhorn を見たかっただけ。夕方に着いた時は雲一つない空に聳え立つ三角錐が数十分ほど見れたが、翌日は曇り空でぼんやりとしか見えず、さらにホステルはどこも高い。村には宿とお土産やとレストランしかなく、スキーをしない客が来るところではなかった。

-Italy-
・Bologna - 一緒に旅をした Eugene の友人 Kenji (日本人じゃないよ)がここボローニャに留学していて、彼に街を案内してもらう。鉄道の設備・サービスの充実したドイツ、スイスから来たため、イタリアの列車の車両の汚さ、速度の遅さ、座席予約の高さにイライラした。
・Venezia - 世界屈指の観光地だけあって、街も、人も、天気も期待を裏切らない。歴史を感じさせる民家、運河を行くゴンドラ、海から吹く心地良い風、カモメ、迷路のように入り組んで狭い通り、縄に吊り下げられた洗濯物、あらゆるものが画になる街。人を殴り殺せるほどに堅いパンとクッキーで凌いできた食事もここだけは財布の紐を緩め、本場イタリア料理をごちそうになる。

-Hungary-
・Pécs - 南ハンガリーの大学都市。タルトゥでのハンガリー人の友人 Bogy の出身地でそれだけの理由で往復6時間もかけて行ってみた。実際、タルトゥのように小さくて、親しみやすく、オスマントルコ占領時代のモスクや、ローマ帝国時代のキリスト教徒の地下礼拝所・墓地のカタコンベがあったりと、歴史に富んだ街でもある。
・Budapest - ロシア旅行でご一緒した変態ハンガリー人 Dániel のアパートに3晩泊めてもらう。大陸ヨーロッパで最古の地下鉄、ヨーロッパ最大の議会、街を見下ろす丘に建つ城、ソ連時代の銅像博物館など、見るものに富んでいて、さらに物価も安い!! 中欧からやってきた旅行者にとって救いの街。

-Czech Republic-
・Praha - 旅も終着間近でテキトーに流す。もうヨーロッパの旧市街にはウンザリだ。全部同じに見えてくる。プラハで面白いのは、街の北にある丘の上に立つ巨大メトロノーム。旧市街の北西にある旧ユダヤ人ゲット-地区博物館も訪れる価値がある。

まぁ、これだけの数の街を3週間で回ったら疲れるのも当然だ。他にも、ハンガリーからチェコへの列車が Eurail Pass の有効範囲外のスロヴァキアを通った時、切符代 35€ を支払う代わりに車掌のポケットに 20€ を忍び込ませることで無券乗車を成立させてみたり、いろいろ楽しいことがあった。

まだまだ、面白い経験やヨーロッパと日本の違うところなど、気付いたことはたくさんあるが、もう面倒臭いので止めときます。

2010年1月1日金曜日

Head uut aastat !!

あけましておめでとうございます(^O^)

日本の、家族と共に紅白を見て、年越し蕎麦を食べて、行く年来る年を見て過ごすのんびり穏やかな新年の始まりが大好きな僕にとって、ここタルトゥでの、早稲田の馬場駅前ロータリーが思い出されるような"カオス"な新年の幕開けに多少の戦慄を覚えると同時に、2010年へ向けて気持ちを新たに精進していこうと決心いたしました。

午後23時。街からは花火の音。新年15分前に友人と共に街へ繰り出すと、街老若男女に関わらずたくさんの街の住民が花火を右手に、酒を左手に道路を練り歩き、Emajõgi川や広場に集まって行く。いたるところで花火が打ち上げられ、"Head uut aastat!!!!"の叫び声。まるでテロかデモの現場のような混沌として無秩序な光景。それにしても、こんなデカイ花火が一般の人の手に渡るなんてどういうことだろうか?酒に酔ったド素人が雪の土台に花火をセットして空へ向けて打ち上げる。中には真上へ飛ばず、人のいる方角へ飛ぶものや、空中で下方に破裂するものなど、本当に危険極まりない(笑)友人のエストニア人の話では20年前に実際に花火がある男性の背中を直撃して死者が出たこともあったらしい。地方政府の年間予算には大晦日花火購入費の項目があるのではないだろうか?

そんな浮かれ騒いで元旦を過ごす友人をよそ眼に、誰も居ないフラットの大掃除に追われる自分。御節、お雑煮、こたつ、箱根駅伝、日本の正月が恋しい。今年は、10代最後のクリスマスも1月にクリスマスを祝うロシアで過ごしたことで無情にも永遠の彼方へと流れて行ってしまった。

明日は、タルトゥの西80kmの街、Viljandi で友人のエストニア人と会ってきます。そして明後日からは待ちに待った中欧旅行の始まり。

2010年の目標ですが、細かいことを設定してもどうせ達成できないので、単純に"留学生活を楽しむ"ということにしておきましょう。「元気があれば何でもできる」。健康に気を付け、笑顔と好奇心の火を絶やすことなく、成人を迎えるこの年を過ごしていこうと思います。

皆さんも、実りある2010年をお過ごしください!!

2009年12月31日木曜日

Venemaa !!




ロシア旅行より帰国しました。

視野の狭い僕の身に、あまりにもたくさんの新しいことが降りかかったため、10日間の長旅を終えて心身疲労困憊のため、そして、1月3日から始まる中欧旅行までの間にすることがたくさんあるため、この旅行を上手にこのブログにまとめるのはとても難しいのですが、詳細よりも旅行全体を総括して感じたこと、新たな発見・出逢い、そういったものに焦点を当て、いくつかの項目に分けて書いてみようと思います。

-Language Barrier-
朝7時に到着した僕らを出迎えてくれたものは吹雪。出鼻から苦難の予感。それを証明するかのように、そしてロシア人について話をすると必ず言われるように、誰一人としてまともに英語を話さない。旅行のパートナー Daniel も僕もロシア語はいくつか単語を知っているだけ、露英辞書もない。最初に見つけた英語を話せるロシア人は駅でSIMカードを売っている50代ぐらいの男性。これは偶然だと思いますが、この旅行中に出会った英語をある程度話せる人の半数は若者ではなく、中年かお年寄りの人々(笑) 列車やバスの切符を買う際にこちらがロシア語をまともに話せず意思疎通ができないと分かるといきなり逆切れしだすオバサン切符販売員たち。単純に英語の能力という観点からだけ見てみれば、状況は絶望的だと思いました(笑)

-People-
そんな言語の壁の存在にも関わらず、そして、僕の持っていた偏見とは正反対に、ロシア人はとても親切。人種差別、外国人に対する襲撃事件、汚職まみれの警官、ネガティヴな情報ばかりを心配していた僕には新鮮な驚きでした。親切と言っても、誰もがニコニコ笑顔で接してくれるというわけではありませんが、外国人とみて話すのを止めたり、態度を変えたり、しかとされたりするということは滅多にありませんでした。むしろ向こうから積極的に話しかけて来る人も多く、極寒の地に住む人々の心の温もりを確かに感じました。一つ聞いた話ですが、サンクトペテルブルクが文化的首都で人々もより寛大であるのに対し、経済的首都であるモスクワの住民は生きるため、金を稼ぐためにより攻撃的でピリピリした空気を持っているらしいです。真偽のほどは来年確かめてみたいと思います。

-St. Petersburg-
ピョートル大帝治下の1703年に建設が始まった帝政ロシア期の首都。「ヨーロッパへの窓」と言われるだけあって街には西欧風の豪奢で巨大な建築があふれ、ロマノフ王朝の宮廷文化の程を感じる。街を流れるネバ川は凍っていて、海から吹く風が身に凍みる。エルミタージュ美術館、王立科学アカデミーなど、文化財産がたくさん保存された場所を訪れたが、いずれも長旅の疲れとロシアの冬の寒さに体力を奪われ、睡魔に襲われつつ見て回ったのでよく覚えていない。とても綺麗な街だったけど、冬の寒さと陰鬱さに華やかさが奪われてしまっていたことと、その後の北極圏での思い出のために、ペテルブルクでの記憶はうっすらとしかありません。来夏にまた来ます。
-On train-
人生初の海外列車の旅。駅では写真撮影が禁じられていることを知っていながら隠れてカメラのシャッターを切りまくる Daniel にオロオロしつつ乗車。車両の外部は雪で覆われ凍りついている。車内は日本のブルートレインのように4つの寝台が取り付けられたコンパートメントが並び、狭い通路とそれに沿ってさらに2つの寝台が通路脇にある。この旅行を通して最も印象深かった記憶の一つは列車でのロシア人との交流。年の暮れに北極圏へ進路をとる外国人旅行者に注意が注がれないわけもなく、お互いの出身国、行き先などを話し始め、ペテルブルクで買ったウォッカを一緒に飲む。同じ年ごろの若い女性や、中年の男性、60, 70代ぐらいのおばあさんや、はたまたソ連時代のスカイダイビングの代表選手だった女性まで、いろんな人と出逢い、言葉を交わすことができました。ロシア人の温かさに触れたことはこの旅で得た財産の一つです。

-Apatity and Kirovsk-
列車で辿り着いた最初の北極圏の街。コラ半島の中心に位置し、豊富な鉱山資源で有名な地。特に Kirovsk にある Khibny山塊はスキーリゾートで有名な街だそうですが、僕らが訪れたところは鉱石博物館、未完成の駅舎、廃工場(笑) 街の人には皆「スキーしに来たのか」と尋ねられましたが、上記の目的地を伝えると彼らの顔には苦笑いが浮かぶ。それを見るたびに、「あぁ、"冬"に"北極圏"へ"Daniel"と来るのは間違いだったな」と思わずにはいられなかった。それはともかく、「平べったい国エストニア」に4カ月住んで起伏のない地形に目が慣れてしまった僕にとって、降雪と雲で頂上の視界を覆われていたとしても、本当の「山」を見れたことは救いでございました。最後に Apatity での最大の思い出は、26日朝8:13発の列車へ宿からダッシュしたこと。バスケ部を引退して2年以上、まともな運動から遠ざかっている軟弱児の体にとって、重い荷物を背負ってのあの「駆け込み乗車」は北極圏の寒さ以上に身に堪えた。

-Murmansk-
北極圏、最大の街であると同時に唯一の不凍港を持つ。港に並んだたくさんの船と積み荷を運び出す大型クレーン、両湾岸からなだらかに伸びる丘とそれに沿って並び立つソビエト的な集団マンション。丘の上には第二次世界大戦でドイツ軍に対して街を守るため戦った名もなきソ連兵への記念碑が建つ。 Daniel から旅行の話を聞いたときは、ロシア軍隊の閉鎖地区だの原子力潜水艦だの物騒な単語しか彼の口からは出て来ず、正直、Murmansk には行きたくなかった僕ですが、すっかりこの街が好きになってしまいました。雪原の大地、轟々と機械音の唸る港、11時に夜が白み始め、その明るさのまま太陽を見ることなく、昼の3時に夜が来る北極圏の冬、-28度の凍てつく、澄み切った夜空に浮かぶ神秘的に美しい半月。全てが同じで退屈で陰鬱なソビエト的な建築もこの環境においては美しく見えてしまう。

-Couchsurfing-
今回の旅行では全ての宿泊地で couchsurfing をしました。St. Petersburg, Apatity, Murmanskの3つの街で宿泊させてもらいましたが、最も印象深いのは Murmansk でのホスト、Katya とその友人の Andrew。最初の晩は、サイコロ版ポーカー、ウォッカの乾杯、シナモン一気食いで大いに盛り上がり、Murmansk での最後の晩は、車で街のあらゆるところに連れて行ってくれた。ハイライトはスキー場の丘から見た、眩く輝く満月が作り出した「優しい光の輪」とその光に答えて控えめに青白く反応する大地の白。その場にいる誰もが言葉を失い、ただただ、北の大地が生み出した「神秘の光」に心を委ねていた。オーロラを見たいと思っていたが、その期待を凌ぐ、美しく、素朴で、謙虚な光を目にした。そしてその場へ僕らを導いてくれた2人のロシア人の心の火。そしてもちろん、彼らに出逢えたのはこの couchsurfing というコミュニティーがあってこそだということは否定できない。文化と文化、人と人との垣根を越えて、お互いの間に存在する偏見を狭めていく。世界を知り、己を知り、人生をより楽しく可笑しくしていくことができる。そういう可能性を持ったこのシステムをより多くの人に是非1度は試してもらいたいなと思います。

-Daniel-
最後に旅のパートナー Daniel について。この旅行中、彼の危険を顧みない行動、異なる感性、文化の違い、意見の衝突と僕の未熟さのため、幾度か冷戦関係に陥りました。10日間食事から宿まで、ありとあらゆる生活を共にしたため、食文化なり、行動作法なり、様々な文化的側面の違いがはっきりと表れた結果による、想像以上のストレス。彼の放浪者の性分が原因であろう、あらゆるものの値段に文句を付けることで、お互いに共同品や旅先の妥協点が見つからないこと。英単語の発音に逐一文句を付けること(RとLの発音の違いなんて分からん!)。大晦日までに帰る予定を急に変更しようとすること。いろんな面でストレスを感じ、道中、彼をどれだけ憎たらしく感じ、この旅の計画に頷いてしまったことを後悔したことか。だが、そう感じてはいつつも、Daniel が小さな面で僕への気配りを忘れないこと、旅を「2人」で楽しもうと努力していること、そして放浪者のあきれるまでの豪快さと底なしの明るさ、そういう姿に自分の矮小さ未熟さを恥じ、次第に彼のことを心から信頼できるようになった。18歳から1人でヨーロッパを旅し始め、モルドヴァでは2回逮捕されたこともあるという根っからの旅好きである彼と旅をしたことで、いろいろな「旅の知恵」も学び取ることができた。最後の最後まで彼にはハラハラさせられ、幾度となく不仲⇔仲直りを繰り返したが、25歳の兄貴分に鍛えてもらったことで、1月のヨーロッパ旅行を更に充実したものにできるかもしれません。

-Other-
フィンランドには行きませんでした。何でって?Murmansk からフィンランドの Rovaniemi までのバスが高いと Daniel が文句を付けたから(笑)それと、愚かなことに、僕が Apatity でのホスト Dmitry の家に携帯、カメラの充電器を置き忘れてきたために、来た道をペテルブルクへ引き返さなければならなかったのです。朝5:25分、クズ日本人のために Apatity駅までわざわざ届けに来てくれた Dmitry 、本当にありがとう。頭が上がりません。充電器が無かったために、Murmansk でのハイライトを写真に収めることは叶いませんでした。

以上、なんだかんだ、だいぶ長々と書きましたが、僕が強調しておきたいことは街の描写よりも、新たな人との出逢い、ロシア人に対する認識の変化、そして Daniel との友情です。

あと4時間ほどで年の明ける大晦日のエストニアより。

2009年12月20日日曜日

Sõit Venemaale ja Soomesse

気付いたらもう12月20日。 ロシア・フィンランド旅行の始まりの日。

22:45の夜行バスに乗ってサンクトペテルブルクへ。帝政ロシア期の首都で3日間過ごした後、夜行列車で針路を北の氷の大地へ。北極圏の街キロフスク、そして北極圏最大の街、ムルマンスクへ。ムルマンスクからバスに乗って、フィンランドのラップランドの首都、サンタクロース村のあるロヴァニエミへ。その後、ヘルシンキ、タリンへと渡り、大晦日の夜はタルトゥのRaatuse dormitoryにて新年を迎えます。

一緒に行くハンガリー人の Daniel に確認したけど、やはり彼はロシア語は喋れない。そして僕も喋れない。「直行、ロシア語勉強してたんだろ?」彼は僕が少しは話せると思い込んでたらしい。とんでもない、全て忘れた。

この時期に北極圏への旅行を選択するのも物好きだな。運が良ければオーロラが見れるということでワクワクしてますが、マイナス30度、40度の寒さに耐えられるかどうか。昨年ユーコンでドッグマッシャ-の方が、マイナス40度の寒紗では小便もでたそばから凍ると言っていたが、確かに最近、外に出ると鼻腔の粘膜がカチカチしてることに気付く(笑)それでも、マイナス10度以下の日々が続いて、マイナス5度を温かいと表現できるようになった自分なら、もう少し着込めば生き抜けるかな。

ロシアでもフィンランドでも "couchsurfing" をする予定なので、ロシアの宮廷文化、北極の夜とオーロラ、ロシア人、フィンランド人との酒宴、全てが楽しみです。

これから荷物をパッキングします。

2009年12月19日土曜日

Laul - eesti klutuur -




ルームメイトの Tuomas、フラットメイトの Eemil, Eevert 兄弟が冬休みでフィンランドの実家へと帰ってしまい、フラットには僕と香港の女の子2人、Maxine と Scottie だけとなりました。その他の留学生も学期を終えて実家に帰り始め、クリスマスと新年を控える師走の喧噪の中、昨晩は Genialistide Klubi というクラブにて「人生初」のライブを聴いてきました。バンド名は "ZETOD"。Setomaa という、エストニア南部に住んでいる少数部族(?)出身の4人組で、白地に編み模様の民族衣装をまとって Setomaa の民族音楽を取り入れた "Folk Rock" を奏でます。お経を読んでいるようなテンポと低く重い声、アコーディオンの音色が心地良いメインメロディーから突然アップテンポなロックで走り出すギャップ、どれをとっても新鮮でいい!

以下、ライブに熱狂する観衆を眺めていて思ったことです。

昨年からの経済危機でエストニア人の生活というのは大変だと思う。人は日々苦しんで、一向に明るい光の射して来ない生活に不安を感じていると思う。それでも、北海道よりも小さなこの国の少数部族出身の若者の舞台に、たくさんの人が心の底から楽しんでいる。北国の暗く、寒く、侘しい冬の生活も、一瞬で掻き消してしまう。それを見て、あぁ、これが「文化」なのかと、そう感じた。視覚的・学術的な意味での文化じゃなくて、精神的な意味での、その国の国民を勇気付け、奮い立たせ、見えない糸でつなぎ合わせる「文化」。歌う国、エストニア。ソビエト占領時代も「歌」という文化で人々の結束を保ち続けてきたこの国に住んでみて、そして実際に人々が生き生きと合唱する様を見て、各国の「文化」が尊重されなければならない理由、それが失われていくことが人々にどれほどの精神的影響を与え得るか、微量ながらも「頭」ではなく「心」で感じ取ることができた。それは他人が勝手に取り上げていいものでも、理由もなく貶していいものでもない。

文章が上手でないので、感じたことを正確に文字にして表せませんが、僕は "ZETOD" のメンバーとエストニア人の観衆が笑顔で楽しそうに歌っているのを見て、彼らの文化を本当に羨ましく思いました。

まぁ、辛気臭い話は置いといて、是非とも "ZETOD" をお聴きあれ。

2009年12月16日水曜日

Sinine ja valge








冷凍庫の中。

マイナス14度の世界とはそういうものでした。以前ブログで書いたように今週に入って気温はぐっと下がり、マイナス10度を下回らなくなりました。日曜日の夜に大雪が降り、月曜の朝は、街を覆う真っ白な雪と2,3週間ぶりの青空と太陽。お昼の授業も放り出して、カメラ片手に冬のタルトゥを散策。以前思いついた「寄り道」も3時半には日が暮れる冬にあっては満足に散策することもできず、まだ目にしていないタルトゥの一面を探しに行きました。

市の中心を流れる Emajõgi (エマユギ川) に沿って伸びる散歩道を歩けば、冬の寒さで凍りついた川の水が大きな氷(2番目の写真)となって川を流れ、時折、氷同士が大きな音を立てて削りあい、川岸に堆積していく。北から南へ流れる Emajõgi を逆らうように進み、中心街を離れると一番上の写真のような白い絨毯の並木道が現れる。街の中心に大学の建物が集中しているため普段の生活もそ自ずとその枠内に狭めてしまっていたわけですが、タルトゥというド田舎な国のド田舎な街が、実際には非常にヴァラエティーに富んだ「顔」をもっていることに気付く、そんな初冬の昼下がりでした。

「歌の祭典」の会場を訪れた後、Emajõgi の南岸、街の広場の北側の "Supilinn" という、お洒落で可愛く、色取り取りの木造住宅が集まる地域へも足を運びました。

マイナス14度の中をニット帽もかぶらずに2時間も歩いたため、耳と顔の筋肉が全て凍りつき、もう寮に戻ろうと思ったその時、見知らぬ男性に声をかけられる。西シベリアのノヴォシビルスクという街出身の男で、当然ロシア語とエストニア語しか話せず。エストニア語の練習をするせっかくの機会だが、寒さに耐えられない身としてはあまり関わらずに帰路を急ぎたい。どうこうしている内に、タルトゥ大学植物園を案内してくれることになる(笑)身振り手振り交えながら少しはエストニア語で会話をすることができたが、口周辺の筋肉が凍っているためまともに発音できない(笑)エストニア人があまり笑わないのはきっとそのためだ。

彼の名は Alexei。僕が凍えているのに気付いて、懐からウォッカを取り出し、「飲め!」の一言。昼間っから何持ち歩いてんだよ(笑)これがロシアン・スタンダードなのでしょうか。さらにはタルトゥの南西に位置するElva という街の彼の自宅の住所まで教えて頂きました.....
「夏に俺の家へ来い!」とのことですが、さてさてどうしようか.....

2009年12月13日日曜日

Japan, Estonia, Columbia and Cameroon

昨晩、ジブリ映画が大好きになったコロンビア人の Carlos と「千と千尋の神隠し」を観た後、25歳の誕生日を迎えたカメルーン人の Dean を祝ってキッチンで団欒しているうちに、Dean がエストニア人学生の住む寮の生活環境を話し始め、そこにエストニア人の Õie が加わって、気付いたら政治やら、経済やら、環境問題やらについて意見交換が始まっていました。

アジア、ヨーロッパ、南アメリカ、アフリカと、全員が異なる大陸出身の、文化、経験、価値観をもつ4人が、それぞれの国、地域が抱えている問題を話し合い、新しいことに目を開かされる、そんな貴重な時間を共有できた一夜。

エストニア人の Õie は、ソビエト占領時代のエストニア人の悲惨な生活環境、例えば、僕が今住んでいる寮の2人部屋程度の大きさの部屋に6人もの家族が押し込まれて住んでいたとか、祖母の家にはトイレも風呂もなかったとか、消費税・所得税が20%もするため、エストニア人のほとんどは経済的に中流か、それ以下の生活を強いられている、など。

カメルーン人の Dean は、NGOや赤十字などアフリカの貧困改善のために活動している団体も、所詮は『仕事』であり、彼らの給料、広報活動、旅費などに寄付金の大半は使われ、実際に苦しんでいる人々には何も届かないと話してくれた。「金を浪費する余裕があるのなら、自分の国で底辺に沈む貧しい人々の救済や病院の設立や医療機器の充実を図ることに使ってほしい。ワクチン接種や病気に対する処方薬を1度体に取り込むと、その『毒』が体を蝕み毎年のように新たなワクチン・薬が必要になり、どんどん体は弱まっていく。そして慈善団体はワクチンを手に入れるための寄付金を募り、彼らだけが得をする。アフリカの人々はそういうものに頼らずとも、祖先から伝わる薬草医療や有機的な果物や野菜を接種することが健康を維持する一番の方法だと知っている。」

コロンビアの Carlos は、アマゾンの熱帯雨林が毎年、異常なスピードで伐採されていくこと、生計を立てるために後先考えずに森林を破壊していく現地住民、2年間従事したボランティア活動で、自然環境に少し手を加えることが自然の営み全てを狂わせることを無知な人々に教え、植林活動を奨励して、少しずつ人々に知識を植え付けていった話などをしてくれた。

正直、僕にとってどれも耳新しい話ではない。高校の授業、大学の授業、テレビ、新聞、インターネットどこにでも書いてある。それでも、エストニアで4カ月、学生生活を送ってきた中でもっとも衝撃的だったひと時を過ごしたと感じる一番の理由は、こういう問題を抱えた国に住んでいる人の口から出てきた、実感を伴わせるリアルな話だったから。うっすらと涙を浮かべて訴える、皆の目が心に焼きついて離れない。

教室で勉強してきたどんなことよりも意味がある。留学することの意味って、こういう経験をすることなのだろう。

2009年12月12日土曜日

Eurail Pass


1月のヨーロッパ列車旅行のための Eurail Pass が届きました。

これは非EU圏の国籍の旅行者用のパスで、15日間有効なものから3ヶ月間有効のもの、1カ国でのみ有効なものから21カ国で有効のもの等、いろいろとヴァリエーションがあります。僕は21カ国21日間有効のパスを購入。値段は€429。

EU市民には、InterRail Pass という特別のパスがあって値段ももっと安いのですが、購入資格はEU加盟国国民またはEU加盟国に6カ月以上滞在している者のみ。僕はエストニアでまだ4カ月

パスが有効な国は、オーストリア、ブルガリア、ベルギー、クロアチア、チェコ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、イタリア、アイルランド、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、モンテネグロ、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア、スウェーデン、スイスなど。

イギリスが入っていないこと、ノルウェー、スイス、セルビアなどEU非加盟国が入っていることから、必ずしもEU圏と重なっているわけではないようです。種類によってはパスが有効でない国もあります。

タルトゥにいるのは大好きだけど、早く旅行に行きたいの.........

フランクフルト、ケルン、ミュンヘン、ノイシュヴァンシュタイン城、ザルツブルク、アルプスのユングフラウ、マッターホルン、ヴェネツィア、ウィーン、ブダペスト、プラハ、ベルリン........

にしても、金はいくらかかるんだろうか?

2009年12月11日金曜日

Pidu Merviga



昨日、エストニア語の元先生の Mervi が寮に遊びに来てくれました。

正規の先生が授業に復帰してから1ヶ月半ほど会っていませんでしたが、Facebookでは連絡を取り合ってました。

夏に森で摘んだブルーベリーを使った手作りパイを焼いてきてくれて大感激。こちらとしては特に料理のバリエーションも作る暇もなく、とりあえず"こくまろカレー"で我慢してもらう...........

ケーキとお茶とクッキーで3時間、その後のエストニア語の授業だとか、冬休みの予定だとか、学生寮の生活の実態だとか、いろいろ話した。こういう家庭的な団欒の場は、日本人同士でも、外国の人とでも、変わらずにいいものだなぁ。

どこかで読んだ一節、「エストニア人と仲良くなるのは大変だけど、1度手にすれば、その友情は永遠に続く」。うん、うん、その通り。

Mervi はまだ26歳らしいから、初めて担当した学生って意味でも思い入れが深いんだろうな。

昨日、今日とエストニア語の筆記試験・口頭試験も終わり、残すところ帝政ロシア史の口頭テストとエッセイ1つだけ。

それが終わればロシアへおさらば。

2009年12月9日水曜日

sombune

「太陽ってなんですか?」

こんな質問をしても理解を示されるだろうほどに、ここ最近、太陽というものにお目に懸かっていない。
エストニアの秋と冬は灰色一色で構成されているのか?
今週になってようやく気温が0度まで下がり始めてきたが、未だにまとまって雪が降らない。
太陽がない、寒い、でも雪がない。
最悪だ......。エストニア、フィンランド、ロシアなどの北国の人が酒を飲む以外に冬を過ごす方法がないのもよく分かる。
朝8時に起床しても外はまだ暗く、再度眠りの世界へ。再び目を覚ませば既に夕方のような薄暗さ。授業への出席意欲は削がれ、課題も先送りにされ、......気候が人の精神状態に及ぼす影響の多大さを、身をもって実感している今日この頃。

「雪よ早く降れ」、そんな期待を胸にエストニアの天気予報サイトを覗いてみると、

"12月14日月曜日:気温-10度"