2009年12月31日木曜日

Venemaa !!




ロシア旅行より帰国しました。

視野の狭い僕の身に、あまりにもたくさんの新しいことが降りかかったため、10日間の長旅を終えて心身疲労困憊のため、そして、1月3日から始まる中欧旅行までの間にすることがたくさんあるため、この旅行を上手にこのブログにまとめるのはとても難しいのですが、詳細よりも旅行全体を総括して感じたこと、新たな発見・出逢い、そういったものに焦点を当て、いくつかの項目に分けて書いてみようと思います。

-Language Barrier-
朝7時に到着した僕らを出迎えてくれたものは吹雪。出鼻から苦難の予感。それを証明するかのように、そしてロシア人について話をすると必ず言われるように、誰一人としてまともに英語を話さない。旅行のパートナー Daniel も僕もロシア語はいくつか単語を知っているだけ、露英辞書もない。最初に見つけた英語を話せるロシア人は駅でSIMカードを売っている50代ぐらいの男性。これは偶然だと思いますが、この旅行中に出会った英語をある程度話せる人の半数は若者ではなく、中年かお年寄りの人々(笑) 列車やバスの切符を買う際にこちらがロシア語をまともに話せず意思疎通ができないと分かるといきなり逆切れしだすオバサン切符販売員たち。単純に英語の能力という観点からだけ見てみれば、状況は絶望的だと思いました(笑)

-People-
そんな言語の壁の存在にも関わらず、そして、僕の持っていた偏見とは正反対に、ロシア人はとても親切。人種差別、外国人に対する襲撃事件、汚職まみれの警官、ネガティヴな情報ばかりを心配していた僕には新鮮な驚きでした。親切と言っても、誰もがニコニコ笑顔で接してくれるというわけではありませんが、外国人とみて話すのを止めたり、態度を変えたり、しかとされたりするということは滅多にありませんでした。むしろ向こうから積極的に話しかけて来る人も多く、極寒の地に住む人々の心の温もりを確かに感じました。一つ聞いた話ですが、サンクトペテルブルクが文化的首都で人々もより寛大であるのに対し、経済的首都であるモスクワの住民は生きるため、金を稼ぐためにより攻撃的でピリピリした空気を持っているらしいです。真偽のほどは来年確かめてみたいと思います。

-St. Petersburg-
ピョートル大帝治下の1703年に建設が始まった帝政ロシア期の首都。「ヨーロッパへの窓」と言われるだけあって街には西欧風の豪奢で巨大な建築があふれ、ロマノフ王朝の宮廷文化の程を感じる。街を流れるネバ川は凍っていて、海から吹く風が身に凍みる。エルミタージュ美術館、王立科学アカデミーなど、文化財産がたくさん保存された場所を訪れたが、いずれも長旅の疲れとロシアの冬の寒さに体力を奪われ、睡魔に襲われつつ見て回ったのでよく覚えていない。とても綺麗な街だったけど、冬の寒さと陰鬱さに華やかさが奪われてしまっていたことと、その後の北極圏での思い出のために、ペテルブルクでの記憶はうっすらとしかありません。来夏にまた来ます。
-On train-
人生初の海外列車の旅。駅では写真撮影が禁じられていることを知っていながら隠れてカメラのシャッターを切りまくる Daniel にオロオロしつつ乗車。車両の外部は雪で覆われ凍りついている。車内は日本のブルートレインのように4つの寝台が取り付けられたコンパートメントが並び、狭い通路とそれに沿ってさらに2つの寝台が通路脇にある。この旅行を通して最も印象深かった記憶の一つは列車でのロシア人との交流。年の暮れに北極圏へ進路をとる外国人旅行者に注意が注がれないわけもなく、お互いの出身国、行き先などを話し始め、ペテルブルクで買ったウォッカを一緒に飲む。同じ年ごろの若い女性や、中年の男性、60, 70代ぐらいのおばあさんや、はたまたソ連時代のスカイダイビングの代表選手だった女性まで、いろんな人と出逢い、言葉を交わすことができました。ロシア人の温かさに触れたことはこの旅で得た財産の一つです。

-Apatity and Kirovsk-
列車で辿り着いた最初の北極圏の街。コラ半島の中心に位置し、豊富な鉱山資源で有名な地。特に Kirovsk にある Khibny山塊はスキーリゾートで有名な街だそうですが、僕らが訪れたところは鉱石博物館、未完成の駅舎、廃工場(笑) 街の人には皆「スキーしに来たのか」と尋ねられましたが、上記の目的地を伝えると彼らの顔には苦笑いが浮かぶ。それを見るたびに、「あぁ、"冬"に"北極圏"へ"Daniel"と来るのは間違いだったな」と思わずにはいられなかった。それはともかく、「平べったい国エストニア」に4カ月住んで起伏のない地形に目が慣れてしまった僕にとって、降雪と雲で頂上の視界を覆われていたとしても、本当の「山」を見れたことは救いでございました。最後に Apatity での最大の思い出は、26日朝8:13発の列車へ宿からダッシュしたこと。バスケ部を引退して2年以上、まともな運動から遠ざかっている軟弱児の体にとって、重い荷物を背負ってのあの「駆け込み乗車」は北極圏の寒さ以上に身に堪えた。

-Murmansk-
北極圏、最大の街であると同時に唯一の不凍港を持つ。港に並んだたくさんの船と積み荷を運び出す大型クレーン、両湾岸からなだらかに伸びる丘とそれに沿って並び立つソビエト的な集団マンション。丘の上には第二次世界大戦でドイツ軍に対して街を守るため戦った名もなきソ連兵への記念碑が建つ。 Daniel から旅行の話を聞いたときは、ロシア軍隊の閉鎖地区だの原子力潜水艦だの物騒な単語しか彼の口からは出て来ず、正直、Murmansk には行きたくなかった僕ですが、すっかりこの街が好きになってしまいました。雪原の大地、轟々と機械音の唸る港、11時に夜が白み始め、その明るさのまま太陽を見ることなく、昼の3時に夜が来る北極圏の冬、-28度の凍てつく、澄み切った夜空に浮かぶ神秘的に美しい半月。全てが同じで退屈で陰鬱なソビエト的な建築もこの環境においては美しく見えてしまう。

-Couchsurfing-
今回の旅行では全ての宿泊地で couchsurfing をしました。St. Petersburg, Apatity, Murmanskの3つの街で宿泊させてもらいましたが、最も印象深いのは Murmansk でのホスト、Katya とその友人の Andrew。最初の晩は、サイコロ版ポーカー、ウォッカの乾杯、シナモン一気食いで大いに盛り上がり、Murmansk での最後の晩は、車で街のあらゆるところに連れて行ってくれた。ハイライトはスキー場の丘から見た、眩く輝く満月が作り出した「優しい光の輪」とその光に答えて控えめに青白く反応する大地の白。その場にいる誰もが言葉を失い、ただただ、北の大地が生み出した「神秘の光」に心を委ねていた。オーロラを見たいと思っていたが、その期待を凌ぐ、美しく、素朴で、謙虚な光を目にした。そしてその場へ僕らを導いてくれた2人のロシア人の心の火。そしてもちろん、彼らに出逢えたのはこの couchsurfing というコミュニティーがあってこそだということは否定できない。文化と文化、人と人との垣根を越えて、お互いの間に存在する偏見を狭めていく。世界を知り、己を知り、人生をより楽しく可笑しくしていくことができる。そういう可能性を持ったこのシステムをより多くの人に是非1度は試してもらいたいなと思います。

-Daniel-
最後に旅のパートナー Daniel について。この旅行中、彼の危険を顧みない行動、異なる感性、文化の違い、意見の衝突と僕の未熟さのため、幾度か冷戦関係に陥りました。10日間食事から宿まで、ありとあらゆる生活を共にしたため、食文化なり、行動作法なり、様々な文化的側面の違いがはっきりと表れた結果による、想像以上のストレス。彼の放浪者の性分が原因であろう、あらゆるものの値段に文句を付けることで、お互いに共同品や旅先の妥協点が見つからないこと。英単語の発音に逐一文句を付けること(RとLの発音の違いなんて分からん!)。大晦日までに帰る予定を急に変更しようとすること。いろんな面でストレスを感じ、道中、彼をどれだけ憎たらしく感じ、この旅の計画に頷いてしまったことを後悔したことか。だが、そう感じてはいつつも、Daniel が小さな面で僕への気配りを忘れないこと、旅を「2人」で楽しもうと努力していること、そして放浪者のあきれるまでの豪快さと底なしの明るさ、そういう姿に自分の矮小さ未熟さを恥じ、次第に彼のことを心から信頼できるようになった。18歳から1人でヨーロッパを旅し始め、モルドヴァでは2回逮捕されたこともあるという根っからの旅好きである彼と旅をしたことで、いろいろな「旅の知恵」も学び取ることができた。最後の最後まで彼にはハラハラさせられ、幾度となく不仲⇔仲直りを繰り返したが、25歳の兄貴分に鍛えてもらったことで、1月のヨーロッパ旅行を更に充実したものにできるかもしれません。

-Other-
フィンランドには行きませんでした。何でって?Murmansk からフィンランドの Rovaniemi までのバスが高いと Daniel が文句を付けたから(笑)それと、愚かなことに、僕が Apatity でのホスト Dmitry の家に携帯、カメラの充電器を置き忘れてきたために、来た道をペテルブルクへ引き返さなければならなかったのです。朝5:25分、クズ日本人のために Apatity駅までわざわざ届けに来てくれた Dmitry 、本当にありがとう。頭が上がりません。充電器が無かったために、Murmansk でのハイライトを写真に収めることは叶いませんでした。

以上、なんだかんだ、だいぶ長々と書きましたが、僕が強調しておきたいことは街の描写よりも、新たな人との出逢い、ロシア人に対する認識の変化、そして Daniel との友情です。

あと4時間ほどで年の明ける大晦日のエストニアより。

2009年12月20日日曜日

Sõit Venemaale ja Soomesse

気付いたらもう12月20日。 ロシア・フィンランド旅行の始まりの日。

22:45の夜行バスに乗ってサンクトペテルブルクへ。帝政ロシア期の首都で3日間過ごした後、夜行列車で針路を北の氷の大地へ。北極圏の街キロフスク、そして北極圏最大の街、ムルマンスクへ。ムルマンスクからバスに乗って、フィンランドのラップランドの首都、サンタクロース村のあるロヴァニエミへ。その後、ヘルシンキ、タリンへと渡り、大晦日の夜はタルトゥのRaatuse dormitoryにて新年を迎えます。

一緒に行くハンガリー人の Daniel に確認したけど、やはり彼はロシア語は喋れない。そして僕も喋れない。「直行、ロシア語勉強してたんだろ?」彼は僕が少しは話せると思い込んでたらしい。とんでもない、全て忘れた。

この時期に北極圏への旅行を選択するのも物好きだな。運が良ければオーロラが見れるということでワクワクしてますが、マイナス30度、40度の寒さに耐えられるかどうか。昨年ユーコンでドッグマッシャ-の方が、マイナス40度の寒紗では小便もでたそばから凍ると言っていたが、確かに最近、外に出ると鼻腔の粘膜がカチカチしてることに気付く(笑)それでも、マイナス10度以下の日々が続いて、マイナス5度を温かいと表現できるようになった自分なら、もう少し着込めば生き抜けるかな。

ロシアでもフィンランドでも "couchsurfing" をする予定なので、ロシアの宮廷文化、北極の夜とオーロラ、ロシア人、フィンランド人との酒宴、全てが楽しみです。

これから荷物をパッキングします。

2009年12月19日土曜日

Laul - eesti klutuur -




ルームメイトの Tuomas、フラットメイトの Eemil, Eevert 兄弟が冬休みでフィンランドの実家へと帰ってしまい、フラットには僕と香港の女の子2人、Maxine と Scottie だけとなりました。その他の留学生も学期を終えて実家に帰り始め、クリスマスと新年を控える師走の喧噪の中、昨晩は Genialistide Klubi というクラブにて「人生初」のライブを聴いてきました。バンド名は "ZETOD"。Setomaa という、エストニア南部に住んでいる少数部族(?)出身の4人組で、白地に編み模様の民族衣装をまとって Setomaa の民族音楽を取り入れた "Folk Rock" を奏でます。お経を読んでいるようなテンポと低く重い声、アコーディオンの音色が心地良いメインメロディーから突然アップテンポなロックで走り出すギャップ、どれをとっても新鮮でいい!

以下、ライブに熱狂する観衆を眺めていて思ったことです。

昨年からの経済危機でエストニア人の生活というのは大変だと思う。人は日々苦しんで、一向に明るい光の射して来ない生活に不安を感じていると思う。それでも、北海道よりも小さなこの国の少数部族出身の若者の舞台に、たくさんの人が心の底から楽しんでいる。北国の暗く、寒く、侘しい冬の生活も、一瞬で掻き消してしまう。それを見て、あぁ、これが「文化」なのかと、そう感じた。視覚的・学術的な意味での文化じゃなくて、精神的な意味での、その国の国民を勇気付け、奮い立たせ、見えない糸でつなぎ合わせる「文化」。歌う国、エストニア。ソビエト占領時代も「歌」という文化で人々の結束を保ち続けてきたこの国に住んでみて、そして実際に人々が生き生きと合唱する様を見て、各国の「文化」が尊重されなければならない理由、それが失われていくことが人々にどれほどの精神的影響を与え得るか、微量ながらも「頭」ではなく「心」で感じ取ることができた。それは他人が勝手に取り上げていいものでも、理由もなく貶していいものでもない。

文章が上手でないので、感じたことを正確に文字にして表せませんが、僕は "ZETOD" のメンバーとエストニア人の観衆が笑顔で楽しそうに歌っているのを見て、彼らの文化を本当に羨ましく思いました。

まぁ、辛気臭い話は置いといて、是非とも "ZETOD" をお聴きあれ。

2009年12月16日水曜日

Sinine ja valge








冷凍庫の中。

マイナス14度の世界とはそういうものでした。以前ブログで書いたように今週に入って気温はぐっと下がり、マイナス10度を下回らなくなりました。日曜日の夜に大雪が降り、月曜の朝は、街を覆う真っ白な雪と2,3週間ぶりの青空と太陽。お昼の授業も放り出して、カメラ片手に冬のタルトゥを散策。以前思いついた「寄り道」も3時半には日が暮れる冬にあっては満足に散策することもできず、まだ目にしていないタルトゥの一面を探しに行きました。

市の中心を流れる Emajõgi (エマユギ川) に沿って伸びる散歩道を歩けば、冬の寒さで凍りついた川の水が大きな氷(2番目の写真)となって川を流れ、時折、氷同士が大きな音を立てて削りあい、川岸に堆積していく。北から南へ流れる Emajõgi を逆らうように進み、中心街を離れると一番上の写真のような白い絨毯の並木道が現れる。街の中心に大学の建物が集中しているため普段の生活もそ自ずとその枠内に狭めてしまっていたわけですが、タルトゥというド田舎な国のド田舎な街が、実際には非常にヴァラエティーに富んだ「顔」をもっていることに気付く、そんな初冬の昼下がりでした。

「歌の祭典」の会場を訪れた後、Emajõgi の南岸、街の広場の北側の "Supilinn" という、お洒落で可愛く、色取り取りの木造住宅が集まる地域へも足を運びました。

マイナス14度の中をニット帽もかぶらずに2時間も歩いたため、耳と顔の筋肉が全て凍りつき、もう寮に戻ろうと思ったその時、見知らぬ男性に声をかけられる。西シベリアのノヴォシビルスクという街出身の男で、当然ロシア語とエストニア語しか話せず。エストニア語の練習をするせっかくの機会だが、寒さに耐えられない身としてはあまり関わらずに帰路を急ぎたい。どうこうしている内に、タルトゥ大学植物園を案内してくれることになる(笑)身振り手振り交えながら少しはエストニア語で会話をすることができたが、口周辺の筋肉が凍っているためまともに発音できない(笑)エストニア人があまり笑わないのはきっとそのためだ。

彼の名は Alexei。僕が凍えているのに気付いて、懐からウォッカを取り出し、「飲め!」の一言。昼間っから何持ち歩いてんだよ(笑)これがロシアン・スタンダードなのでしょうか。さらにはタルトゥの南西に位置するElva という街の彼の自宅の住所まで教えて頂きました.....
「夏に俺の家へ来い!」とのことですが、さてさてどうしようか.....

2009年12月13日日曜日

Japan, Estonia, Columbia and Cameroon

昨晩、ジブリ映画が大好きになったコロンビア人の Carlos と「千と千尋の神隠し」を観た後、25歳の誕生日を迎えたカメルーン人の Dean を祝ってキッチンで団欒しているうちに、Dean がエストニア人学生の住む寮の生活環境を話し始め、そこにエストニア人の Õie が加わって、気付いたら政治やら、経済やら、環境問題やらについて意見交換が始まっていました。

アジア、ヨーロッパ、南アメリカ、アフリカと、全員が異なる大陸出身の、文化、経験、価値観をもつ4人が、それぞれの国、地域が抱えている問題を話し合い、新しいことに目を開かされる、そんな貴重な時間を共有できた一夜。

エストニア人の Õie は、ソビエト占領時代のエストニア人の悲惨な生活環境、例えば、僕が今住んでいる寮の2人部屋程度の大きさの部屋に6人もの家族が押し込まれて住んでいたとか、祖母の家にはトイレも風呂もなかったとか、消費税・所得税が20%もするため、エストニア人のほとんどは経済的に中流か、それ以下の生活を強いられている、など。

カメルーン人の Dean は、NGOや赤十字などアフリカの貧困改善のために活動している団体も、所詮は『仕事』であり、彼らの給料、広報活動、旅費などに寄付金の大半は使われ、実際に苦しんでいる人々には何も届かないと話してくれた。「金を浪費する余裕があるのなら、自分の国で底辺に沈む貧しい人々の救済や病院の設立や医療機器の充実を図ることに使ってほしい。ワクチン接種や病気に対する処方薬を1度体に取り込むと、その『毒』が体を蝕み毎年のように新たなワクチン・薬が必要になり、どんどん体は弱まっていく。そして慈善団体はワクチンを手に入れるための寄付金を募り、彼らだけが得をする。アフリカの人々はそういうものに頼らずとも、祖先から伝わる薬草医療や有機的な果物や野菜を接種することが健康を維持する一番の方法だと知っている。」

コロンビアの Carlos は、アマゾンの熱帯雨林が毎年、異常なスピードで伐採されていくこと、生計を立てるために後先考えずに森林を破壊していく現地住民、2年間従事したボランティア活動で、自然環境に少し手を加えることが自然の営み全てを狂わせることを無知な人々に教え、植林活動を奨励して、少しずつ人々に知識を植え付けていった話などをしてくれた。

正直、僕にとってどれも耳新しい話ではない。高校の授業、大学の授業、テレビ、新聞、インターネットどこにでも書いてある。それでも、エストニアで4カ月、学生生活を送ってきた中でもっとも衝撃的だったひと時を過ごしたと感じる一番の理由は、こういう問題を抱えた国に住んでいる人の口から出てきた、実感を伴わせるリアルな話だったから。うっすらと涙を浮かべて訴える、皆の目が心に焼きついて離れない。

教室で勉強してきたどんなことよりも意味がある。留学することの意味って、こういう経験をすることなのだろう。

2009年12月12日土曜日

Eurail Pass


1月のヨーロッパ列車旅行のための Eurail Pass が届きました。

これは非EU圏の国籍の旅行者用のパスで、15日間有効なものから3ヶ月間有効のもの、1カ国でのみ有効なものから21カ国で有効のもの等、いろいろとヴァリエーションがあります。僕は21カ国21日間有効のパスを購入。値段は€429。

EU市民には、InterRail Pass という特別のパスがあって値段ももっと安いのですが、購入資格はEU加盟国国民またはEU加盟国に6カ月以上滞在している者のみ。僕はエストニアでまだ4カ月

パスが有効な国は、オーストリア、ブルガリア、ベルギー、クロアチア、チェコ、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、ギリシャ、ハンガリー、イタリア、アイルランド、ルクセンブルク、リヒテンシュタイン、モンテネグロ、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア、スウェーデン、スイスなど。

イギリスが入っていないこと、ノルウェー、スイス、セルビアなどEU非加盟国が入っていることから、必ずしもEU圏と重なっているわけではないようです。種類によってはパスが有効でない国もあります。

タルトゥにいるのは大好きだけど、早く旅行に行きたいの.........

フランクフルト、ケルン、ミュンヘン、ノイシュヴァンシュタイン城、ザルツブルク、アルプスのユングフラウ、マッターホルン、ヴェネツィア、ウィーン、ブダペスト、プラハ、ベルリン........

にしても、金はいくらかかるんだろうか?

2009年12月11日金曜日

Pidu Merviga



昨日、エストニア語の元先生の Mervi が寮に遊びに来てくれました。

正規の先生が授業に復帰してから1ヶ月半ほど会っていませんでしたが、Facebookでは連絡を取り合ってました。

夏に森で摘んだブルーベリーを使った手作りパイを焼いてきてくれて大感激。こちらとしては特に料理のバリエーションも作る暇もなく、とりあえず"こくまろカレー"で我慢してもらう...........

ケーキとお茶とクッキーで3時間、その後のエストニア語の授業だとか、冬休みの予定だとか、学生寮の生活の実態だとか、いろいろ話した。こういう家庭的な団欒の場は、日本人同士でも、外国の人とでも、変わらずにいいものだなぁ。

どこかで読んだ一節、「エストニア人と仲良くなるのは大変だけど、1度手にすれば、その友情は永遠に続く」。うん、うん、その通り。

Mervi はまだ26歳らしいから、初めて担当した学生って意味でも思い入れが深いんだろうな。

昨日、今日とエストニア語の筆記試験・口頭試験も終わり、残すところ帝政ロシア史の口頭テストとエッセイ1つだけ。

それが終わればロシアへおさらば。

2009年12月9日水曜日

sombune

「太陽ってなんですか?」

こんな質問をしても理解を示されるだろうほどに、ここ最近、太陽というものにお目に懸かっていない。
エストニアの秋と冬は灰色一色で構成されているのか?
今週になってようやく気温が0度まで下がり始めてきたが、未だにまとまって雪が降らない。
太陽がない、寒い、でも雪がない。
最悪だ......。エストニア、フィンランド、ロシアなどの北国の人が酒を飲む以外に冬を過ごす方法がないのもよく分かる。
朝8時に起床しても外はまだ暗く、再度眠りの世界へ。再び目を覚ませば既に夕方のような薄暗さ。授業への出席意欲は削がれ、課題も先送りにされ、......気候が人の精神状態に及ぼす影響の多大さを、身をもって実感している今日この頃。

「雪よ早く降れ」、そんな期待を胸にエストニアの天気予報サイトを覗いてみると、

"12月14日月曜日:気温-10度"

2009年12月7日月曜日

PÖFF ja GHIBLI nädal

昨日、「空気人形」なる変な日本映画を観てPÖFF(=Dark Night Film Festival)が終わった。

結局先週は、エッセイを1つ終えた後の反動期間ということで勉強はせずに映画ばかり。

観た映画は、

・Accident: 事故に見せかけて殺人を遂行する犯罪者。Death Note の話を思い出しながら見ると面白い。
・南京!南京!: 南京大虐殺の現実をリアルに伝える映画。生々しい映像と現実に翌日まで気分が悪くなる。
・Reykjavik-Rotterdam: 「空気人形」のチケットを9枚購入する際に、10枚まとめて買うと割引があるということだったので、内容も知らずにチケットを購入。アイスランド人のマフィアかなんかの話。適当に選んだ割にはストーリーもギャグも面白く、当たりだった。
・空気人形: 性欲処理のための空気人形がある朝心を持ってしまう。とりあえず板尾創路が出てた。彼には年末の「ガキ使」に期待。

その他、You Tubeで、

・風の谷のナウシカ
・魔女の宅急便
・もののけ姫
・千と千尋の神隠し
・ハウルの動く城

ジブリ映画を立て続けに観る。

「魔女の宅急便」で、キキの13歳で独り立ちして知らない街で暮らしていくという今まで何度も観てきたストーリーに、8月からエストニアという国で初めて一人暮らしをしている自分の経験を重ね合わせて共感・感動する。

自然大好きコロンビア人の Carlos は「ナウシカ」と「もののけ姫」を観て、とても教育的な映画だと大感動。ヤックルが欲しいらしい。

どうせなら「ラピュタ」も観たかったが時間切れ。今週はさすがに勉強しなきゃ。

それとこの間のロシア史のエッセイ、20点満点中15点で、何も参照せずに2日間で書いた割にはまぁまぁ良い評価を頂きました。

問題は来週の帝政ロシア史口頭試験。エッセイなら書けるが、僕は英語が話せません。

2009年12月1日火曜日

"Nanjing, elu ja surma linn"

昨日お話しした"PÖFF"の上映作品の一つ「南京!南京!」を観てきました。

1937年に始まった日中戦争時の「南京大虐殺」に焦点を当てた映画で、監督は中国人の陸川さん。

歴史的大事件を扱った映画だけに、民族感情を煽るような映画なのではと危惧してましたが、事実を刻々と映し出し、この悲劇を現代の中国人・日本人はどう捉え、お互いに理解しあっていけばいいのか、それを考える上で一助となる秀作です。

事実を鮮明に表現しているだけあって、作中には日本軍と中国軍の残酷な市街戦、広場に集められ一斉に銃殺される人、生き埋めにされる人、教会に押し込まれ建物ごと火あぶりにされる人、電柱に吊り下げられた死体や生首など、惨たらしい光景が何度も描かれ、途中気分が悪くなりもした。

作中の演技において感銘を受けたのは日本軍兵士を演じた日本の俳優の方々。南京市民の大量虐殺、女性への強姦、小さな子供を2階から放り投げるシーンなど、精神的に大きな苦痛になるだろう場面もしっかりとリアルに演じてある。きっと撮影中は辛かったことと思うが、彼らの努力がこの映画を更に価値あるものにしていると感じる。

生きることを憂いて死に行く人、幸運にも生き続けるチャンスを手にした人、精神的苦悩により死を選ぶ日本軍兵士、英語版のタイトルが"City of Life and Death"であるように、生と死の中に戦争に翻弄され、傷つき、崩壊していく人々の魂が見える。この映画は事実を克明に描くことで、南京大虐殺という悲劇の歴史を人々の心にしっかり留めさせる役割はもちろん、人々の精神の支配と崩壊という戦争の本質を暴くことで、この事件に対するもっと大きな、普遍的な視点に立った理解を人々に求めている。

中国の作品であるにもかかわらず、物語は日本軍兵士の視点に立って進んでいくという点に、陸川監督の求めているものが見えてくると思う。

日本でこの映画が上映されたかどうかは分かりませんが、学校でもロクに教えられることのない事件だからこそ、もし見る機会があれば、是非とも勇気を出して歴史の真実に目を向けて欲しいと思います。

映画通でもないのに少し生意気な意見を述べさせてもらいました。真剣に物事を考え始めると整理がつくまで頭から離れないから困ります。

旅行計画だけ考えることにします。