2009年9月29日火曜日

Northeast Estonia







先週末に行って来たエストニア北東部の旅について少々書きたいと思います。
最初の目的地はエストニア最大の湖"Peipsi järv"。ロシアとの国境にあり、1242年にドイツ騎士団とロシアのアレクサンドル・ネフスキー率いるノブゴロド公国軍が氷上の湖の上で戦った場所でもあります。湖畔の街Mustveeは、ロシア正教の支配を嫌ってロシアから逃亡した"Old Believers"が住む街でもあり、街中には彼らの教会も残っています。
次の目的地は"Kuremäe klooster (クレマエ修道院)"。エストニアで唯一のロシア正教女子修道院で、100人余りの修道女が現在も活動を続けています。2日間の旅を通してほとんどどんよりした曇り空でしたが、この時だけ青空が見えて綺麗な写真も撮れました。
道中、ソ連時代に建設された原子力発電所の廃墟にも立ち寄りました。この発電所自体は建設途中に放棄されたらしいのですが、これ以外にも工場の煙突、廃墟と化した工場、鉱山などを目にしました。エストニア北東部はソ連による占領期間に産業の中心として発展した地域であり、ソ連がエストニアに残していった"遺産"というものを直に感じました。さらに、昼食を取ったJõhviという街からはほとんどの人がロシア語話者。街の標識はすべてエストニア語で書かれているのにエストニア語を話す人がほとんどいないのです。Narvaの人口の95%がロシア人ということは知っていたのですが、実際にはエストニア北東部全体がロシア人に占領されているといった印象を受けました。
Narvaに到着したのは4時過ぎ。街の入り口前の道路にはロシアへの入国を待つ大量の大型トラックが列をなし、ひとたび街に入れば目に映るものは完全に同じ外見の集合住宅、煙草を吸う少年、昼間からビール瓶を片手に歩く男、正にロシアに対するネガティブなイメージそのままがそこにはありました。ロシアとエストニアの間を流れるNarva川の両岸には13世紀にデンマークによって建設されたNarva城とロシア側のIvangorod城が睨み合っていて、この地が歴史上デンマークやドイツ騎士団、スウェーデンとロシアの国境として重要な土地であったことが感じられます。両軍の兵士が砦の上で睨み合う、そんな場面が頭の中に浮かんでくるような、歴史的な重みがヒシヒシと心に伝わってきます。余談ですが、川沿いを歩いている途中、丘の上でこちらに手を振っているロシア人の子供たちに出会いました。話してみると、中学・高校生ぐらいの年頃で、日本のアニメが大好きで、日本人と初めて交流して興奮してるらしい。パソコンのアドレスを教えたので、その内メールなりfacebookで連絡してくることでしょう。改めて日本のアニメ文化がどれだけ世界中に知られているかを認識させらるとともに、一つの文化を通して異なる国籍の人たちが仲良くなれるという素晴らしい経験にもなりました。
2日目は再びNarvaを訪れ、Narva城内部の博物館や展望台を見学し、次の目的地"Valaste waterfall"へ。エストニアで最も落差の大きい滝で(30.5m)、流れ落ちた水はフィンランド湾へと注ぎます。Narvaで空を覆っていた分厚い雲も消え去り、道中目にしてきたソビエト時代の負の遺産を忘れさせるほどの、青い空と白い雲、広大なフィンランド湾と紅葉した木々の美しいコントラストを満喫しました。
その後、Kohtla-Järveという街の放棄された工場や、路線、鉱山などを見学し、最後は人の手で作られた"tech-hill"に登りました。丘と言っても30m程度しかありません。頂上から見える景色と言えば、延々と広がる野原と森林のみで、隆起した土地というものが全く見当たらない。これがエストニアの、延いてはロシア周辺部の特徴的な地形なのでしょう。まぁ、自転車で旅するのにはこれ以上ない土地ですが(笑)
こんな感じで旅も終わり、日曜日の夜にTartuへ帰って来ました。今回の旅で一番印象深いことはやはりロシアの影響の大きさですね。繰り返し書いて来ましたが、たくさんの工場、集合住宅、ロシア人。自分がいまエストニアいるとは到底思えない、それほどまでにロシア(ソ連)が残していったものの大きさを感じ、学んだ旅でした。言い方が適切ではないですが、自国の一部が他国の民族に支配されているようなこの状況を、エストニア人はどのように感じているのでしょうか?半世紀に渡ってソ連の支配を耐え忍びようやく手に入れた独立国家の中に、その敵国の住民が占領している街がある。Narvaという街、そしてエストニア北東部全体が、エストニアという小国の20世紀における悲劇的な歴史を象徴しているように思われました。
以上、エストニア北東部への旅でした。もっと書きたいことがありますがこの辺でやめときます。

2009年9月25日金曜日

Choir

久しぶりのブログです。この一週間、エストニア語の勉強もだいぶ進みました。一昨日の夜に開かれた、"Estonian National Evening"というパーティーでエストニア人の子と知り合いになり、さらに日本語を勉強しているエストニア人の友人を紹介してくれるということなので、日本語を教えつつ、こちらもエストニア語を教えてもらえるような関係が築ければいいなと思います。

ところで今日は、タルトゥ旧市街の"Jaani Kirik(St. John's Church)"へ"Estonian National Male Choir(男声合唱団)"のコンサートを聴きに行きました。合唱団の声が響き渡り、何か天使でも降臨してきそうな、荘厳な空気。中世の宗教がまだ生活に深く根付いていたころのヨーロッパを想像しながら、自分がいまその瞬間に居ると想像しながら、この素晴らしいコンサートを楽しみました。

明日からは、エストニア北東部に位置する街"Narva"へ1泊2日の旅行に行ってきます。Narvaはロシアとの国境に位置するエストニア第三の都市で、人口のなんと95%がロシア人!!大学でロシア語を一年間勉強しましたが、果たして役に立つかどうか、まして覚えているかどうかも定かでない.......

今回はハンガリー人の友達Danielの運転する車での旅になるので、道中いろいろな場所に立ち寄ることができ、前回とはまた違った旅を楽しめるかと思います。バスと徒歩での旅だとあまり広範囲で行動ができないので、車は便利ですね。僕の場合、免許も何もないので、"自転車"でエストニアを旅して回る計画を立てています。まぁ、それは当分先の話でしょう。これから寒くなり雪も降るから、春学期が終わった後の6月・7月になるかな。

帰ってきたらまた旅行記を書きます。

2009年9月17日木曜日

炒飯



炒飯作ってみました~(^O^)
初心者の割には上手に作れたかなと思います。ご飯を鍋で炊くこともできたし。
失敗はネギを買い忘れたことと、卵を入れた後にすぐにご飯を入れなかったために卵が固くなってしまい、卵を追加せざるを得なかったこと。
大学のことですが、授業登録が終わりました。僕が取っている授業は、
・"History of Russian Empire unitl 20th Century"
・"Historical Dynamics in European-Russian Relation"
・"Estonian Language"
だけです(笑)僕が取っている授業は全て、EU-Russian Studies という大学院生向けのプログラムで、学生のレベルや課題読書の量やエッセイも学部生には少し大変らしい。勉強したくないことの言い訳にしか聞こえないと思うけど、正直その通りです。もともとタルトゥ大学で勉強したいことなんてなかった。せっかくエストニアなんて辺境の地に来たのに机の上の勉強に時間を持ってかれるんじゃきっと後で後悔すると思う。一人旅とか博物館・美術館めぐりとか、日本で全くしてこなかったことを楽しみたい。大学の授業はほどほどにして、現地の人との交流を楽しみたい。唯一、エストニア語とロシア語の勉強だけは人一倍頑張るつもりですが。まぁ、そんな感じで秋学期は進んでいきます。
話は変わりますが、一昨日、この平和な町タルトゥにも「スキンヘッド」がいるという事実が判明しました。異民族に暴力行為を働くネオナチにスキンヘッドが多いためこう呼ばれています。これはルームメ
イトのTuomasから聞いた話ですが、フィンランド人の友人Villeがあるパブで飲んでいたところ、背後からいきなりスキンヘッドの男が殴りかかり鼻を骨折する怪我を負わせたらしい。何故フィンランド人が襲われたの?と尋ねたところ、彼が英語で話していたことに原因があるとのこと。さらにTuomasによると、タルトゥ大学で勉強している日本人の大学院生の方も1年前、スキンヘッドの男に襲われたらしい。
あぁ~怖い怖い。さっきいろいろ旅してまわりたいって言ったばっかりだけど、一人で外歩き回るのが恐ろしくなった(笑)それでもエストニア選んだのも自分の責任だし、スキンヘッドに囲まれてリンチされたらそれも自分の運命かな......

2009年9月13日日曜日

ぐ~たら



寝坊して始まった日曜日。帝政ロシア史の授業の課題読書があるのになんにもする気が起きません。


ルームメイトのTuomasが「ガキの使いやあらへんで」の「笑ってはいけない旅館in湯河原」の動画を見せてきたから、ついつい一緒に夜遅くまで大爆笑してしまった。なんで「ガキ使」知ってんだよ。。。


お笑いといえば、日本ではそろそろ「細かすぎて伝わらないモノマネ」が放送されるころでしょうか?エストニアにいてもこれだけは必ずチェックするんだろうな(笑)個人的には"ウクレレエイジ"に頑張ってほしいな。第1回の「七人の侍 志村喬」のマネとか(笑)


ところで、大学の友人から自炊の写真を見せろと言われたので、親子丼作ってみました。


自炊に限らず全てが初めてのこの留学生活は失敗だらけですが、やはり今回も失敗。だし汁の量が多すぎて卵が汁の中に沈んでしまうし、鶏肉にはレモンの味がついてるし、半熟とろとろの親子丼にはならず。まぁ、それでもおいしかったです。なんかこっちの卵は黄身が白っぽくて、食欲をそそる黄色にならない。


K君。自炊初めはこんなもんでしょうか?


また明日から授業です。生活を立て直して、有意義な1週間にしようと思います。

2009年9月12日土曜日

Viljandi























 Viljandiから帰って来ました。本当にきれいな街でした。
 朝5時45分のバスに乗って、霧に包まれた道路を行くこと約1時間。Tartuから西に80km離れた湖畔の街"Vilijandi"に到着。バスターミナルから南へ真っ直ぐ歩き、真白のいかにも教会らしい"St. John's Church"を左に見送って丘の道を歩いて行くと、吊り橋(Suspension Bridge)が見えてきて、その先にチュートン騎士団の要塞跡が待っています。朝早く到着したおかげで、眼下に広がるViljandi湖から湧き立つ雲のような霧とその先に光り輝く太陽の絶景を拝むことができました。一緒に行った香港の留学生Eugeneがカメラについて詳しかったおかげで撮り方の基本を教わることができ、いくつか綺麗な写真を撮ることができた。3つ続きの丘の上に立つこの要塞にはもともとエストニア人の要塞があったのですが、13世紀ドイツ勢力との闘いの末に陥落し、新たにチュートン騎士団の要塞が建設されました。Viljandiはその後、ハンザ同盟に加入し、交通の要衝として栄えたようです。
 要塞を後にし、"Kondase Keskus"というアート・ギャラリーへ。Paul KondasというNaivistの作品が展示されています。Naivistとは美術教育を受けず、独学で絵を描き始めた人のことを指すらしく、Kondasも50,60歳を過ぎ教師を退職した後に絵画を始めたそうです。肝心な絵は、やはり正規の教育を受けていないから子供の絵のよう。腕がマカロニのようにグニャッとしていたり、子供が書く両親の似顔絵のような顔など。しかし、とても丁寧に描かれていて、何よりもユーモアがあって良い。Viljandiに行く人は是非このギャラリーを訪れることをお勧めします。案内の人はとても丁寧に、ゆっくりと、熱心に説明してくれる。ところで、ここViljandiの町では大きなイチゴのモニュメントが散見されるが、その理由は、Kondasの"Strawberry eaters"という作品から来ているらしいです。
 その後、30mの高さの"Old Water Tower"に登りました。展望台からは360°の大パノラマが広がり、街並みや湖はもちろん、周囲の土地まで見渡せました(当然、森と草原のみ)。ただ、塔の中は小さな羽根虫だらけ。エレベーター建設のための寄付金を募っていましたが、虫の駆除と侵入防止に使うべきですね。
 "Water Tower"の通りの東には湖へ下る階段が続き、テニスコートやサッカー場などで子供達が遊んでいます。ここにマラソン選手の像がありました。「"Huberto Pӓrnakivi"。Viljandi湖マラソン11大会連続優勝の記録を持つ。」とあります。ワールドクラスとありましたが、世界大会での記録に関する記述は一切ない、ローカル・ヒーローです。湖では1時間50EEKでボートを借りて、湖上でのほほ~んとしました。湖から見ると要塞の立つ丘の特異な地形がはっきりと分かります。3つ並びの台形の丘と急斜面の谷、要塞が賢固を誇ったことが容易に理解することができます。
 その後、街に戻って赤レンガの"St. Paul's Church"を写真に収め、夕日の写真を撮るため18時ごろに再び湖へ。ボートを借りて撮影ポイントへ移動し、ボートの上に寝っ転がってEugeneと語り合いながら日が沈むのを待ちました。が、なかなか太陽が沈まない。エストニアは9月になっても日没は20時頃。結局、日没直後の真赤に染まった空と湖を写真に収めることはできず。さらに充電し忘れたカメラのバッテリーがついに切れてしまう悲劇。まぁ、仕方ない。一日中歩き回ったので疲れ果て、すぐに眠りに落ちました。
 2日目。朝8時起床。当初、朝5時に起きて、昨日と同じ要塞跡から朝焼けの空と湖を眺めにいく予定でしたが、目覚ましが鳴っても疲れで起きる気分にならず、どうせバッテリーも切れてるし、ってなわけで2人とも寝坊。今日は志向を変えて観光地には行かず、普通の家が並ぶ住宅街を散策。バルト風の家、ギリシャ建築とバルト建築が混ざった家、湖へ延びる急坂に立ち並ぶカラフルな家々、静寂に包まれた通り。街の中心から離れたところを散策する楽しみを味わいました。ほとんどの家には大きな庭があって、子供たちが遊んでいたり、大人は庭に生えるリンゴを収穫していたり、とても平和な空間。エストニア語をもっと勉強して、ただ写真を撮るだけの旅に現地の人々との交流を付けくわえられるようになりたい、と思いました。
 再び要塞跡を訪れ絶景を眺めながら昼食。14時から'St. John's Church"でコンサートを鑑賞する予定でしたが、湖の対岸を眺めているうちに向こう岸には何があるのか気になり、Eugeneに無理を言って計画を変更。ただ、何とビックリ、彼が自転車に乗れないことが判明し、延々歩いて対岸を目指すことに。対岸の森の中はハイキング・トレイルが延び、森の横には麦畑が広がっていました。Viirastiという街にも入りましたが、人も歩いていないし、何にもなさそうなのですぐに出て、Viljandiの街へ戻り、これ以上散策する気分にもならないということで15時半のバスでTartuへ帰りました。
 総じて、エストニアで初めての旅ということで全てが印象深く、全てが素晴らしい思い出でです。旅の計画に乗ってくれたEugeneとの仲もきっと深まったと思う。一つ残念なことはエストニア人と交流ができなかったこと。せっかく旅をしても留学生同士の仲間内で観光名所だけみて帰るんじゃもったいない。一人で旅をして、現地の人々と彼らの言葉で交流をする。そういう経験をしてみたい。その為には勉強あるのみ。目的があれば勉強もはかどる。今回の旅で、エストニア語で料理を注文してみたらちゃんと通じた。小さなことでも恥ずかしがらずに喋ってみて、少しずつ上達していければいいと思う。一年後に一人でエストニア中を旅して、エストニア語でエストニア人と交流をしている自分を想像して、勉強に精を出そうと思います。
 以上、Viljandiへの旅行記でした。

2009年9月10日木曜日

Toomkirik







今日は、タルトゥ大学本館の裏手、トーメの丘に位置する"大聖堂"(Toomkirik)へ行ってきました。この大聖堂は毎日語学のクラスの建物に行き来するときに通るのですが、まだ中に入ったことがありませんでした。聖堂の東側はタルトゥ大学歴史博物館、西側は展望台となっており、展望台への入場料は学生15EEKです。
塔の入口には、本を読んでいるおじさんが毎日座っていて、チケットの有無を確認します。大聖堂の中に入ると、ほのかな灯りに赤レンガの通路が照らされ、なにか宝探しをしているような気分になります。西側の塔はさらに南北に分かれており、南塔は大聖堂の歴史を記した展示品、北塔は屋上が大きな展望台になっています。

この大聖堂の建設は13世紀、エストニアが外国勢力に征服された後、タルトゥを管轄した司教の命令により開始され、15世紀に完成しました。しかし、16世紀、ルターによる宗教改革の影響によりカトリックのこの建物は(たぶん)闘いにより廃墟と化し、もともとは66mあった塔も、現在ではわずか20mあまりになってしまったそうです。塔内部の展示品の説明を思い出して書いているだけなので、かなり適当な説明です。スイマセン。
展望台から見るタルトゥ旧市街の町並みを期待していましたが、手前の木に阻まれ教会の尖塔しかみれませんでした。それにしてもエストニアはどこを見渡しても緑で覆われていますね。首都タリンからタルトゥまでもそういえば何もなかった。国土45,227平方キロメートルのうち、半分近くの20,155平方キロメートルが森林で覆われている国ですから仕方がない。南方には少し盛り上がった土地が確認できたので、あれがエストニア最高地点(わずか318m!!高尾山より低い!!!)のSuur Munamӓgi(スール・ムナマギ)かもしれません。エストニアに来て初めて自分が写った写真を撮りました(GAFSの皆さん、僕は元気です!! 体重は2kgも減りましたが....)
明日から1泊2日でエストニア南部のViljandiという街へ旅行してきます。ドイツ騎士団の要塞などが残るとても綺麗な街だということなので、とても楽しみです。現在、外は雨ですが明日は晴れることを願います。

2009年9月6日日曜日

ルームメイト


今日は特に面白いこともないので、ルームメイトについて少し書いておこう。


彼の名はTuomasといってフィンランドからの留学生です。


1990年1月6日生まれということなので、僕と同学年です。フィンランドの高校を卒業してそのままタルトゥ大学に進学、ここに6年間在学して医学を学びます。フィンランドの医学校への入学は非常に高い門であり、彼も残念ながら不合格だったらしい。ただ、日本の全ての大学がそうであるように、フィンランドの医学校も一度入学してしまえば勉強はそこまで大変ではないらしい。試験をパスできなくても追試は何回でも受けられるし、成績が悪くても退学させられることはないとのこと。対照的に、ここタルトゥ大学の医学部は非常に厳しく、本気で医者を志す学生には良い環境なのかもしれません。


Tuomasの時間割もも朝8時から夕方17時ぐらいまで授業漬け。受験勉強を思い起こさせるハードワークです。その代わり、授業は月~木の週4なので、金・土・日は昼まで寝て、夜はクラブやパブで遊び呆けてます。まぁ、膨大な医学の勉強量を考慮すればそうなるだろうね。


「医者の不養生」という諺があります。彼は医者を志す人間ですが、その生活習慣は不健康そのもの。上の写真に注目してください。彼は8/25日にこの寮に到着し、その日から毎日のようにエナジードリンクを飲み続けています。数えてみると、エナジードリンク42本、2ℓペプシ3本、500mlのエナジードリンク3本。一日3本計算です。フィンランドの3分の1の値段で買えるからとか言ってますが、理由にならないだろ。。。加えて、僕はこれまで彼が野菜や果物を食べているところを見たことがないのです。朝ご飯は良く分からない粉に水を加えた飲み物。昼食はエナジードリンク(笑)。夕飯はカロリーの高そうな肉を炒めて、野菜も添えずに食べています。日本人には牛乳の成分であるラクトースを分解する遺伝子がないから下痢を起こしやすいとか何とか、食事や健康のことについて教えてくれるのですが、それはこっちのセリフです。自覚症状がないとなると、こっちも忠告しづらい。。。


彼は頻繁にジムに通っています。胸や肩の周りの筋肉はムキムキなのですが、お腹はぽっこり(笑)。上述のエナジードリンクが原因なのは言うまでもないでしょう。ジムで腹筋はしてるのかな?


そんな不健康な彼は、ネット中毒!?パソコンには音楽や映画が数多くダウンロードしてあるし、MSNのチャットに夢中だし、何かあればすぐにウィキペディアに走ります。今の時代こういう人はたくさんいるんでしょうが、ネット難民の僕にとっては少し異質です。


ちょっと彼の良くない点を強調しすぎましたが、とても陽気ないい奴です。昨日もフィンランド人の医学部の友達のパーティーに誘ってくれました。友達を作る協力をしてくれるし、僕がフィンランド語を理解できないのに配慮して英語に切り替えてくれました。典型的なフィンランド人のイメージである、"大酒飲み"でもないので、フラットでパーティーを開いて勉強を妨げられることも全くありません。ネット中毒と不健康な生活習慣を除けば、行儀の良いすばらしい男です。


1年間、彼と仲良くやっていこうと思います。

2009年9月5日土曜日

Tartu Linnamuuseum


かねてから計画していた博物館巡りを始めました。昨日行った場所は"タルトゥ市博物館"。


エストニアは、東をロシア、西にドイツ、北にスウェーデンといった大国に挟まれた地理的に重要な地域であり、その歴史は他国の侵略の歴史と言っても過言ではない、といった印象を博物館の展示品や資料から感じました。13~15世紀はデンマークやドイツ騎士団に支配され、、16世紀になるとイヴァン雷帝のもと領土を拡大し始めたロシアやスウェーデンの支配がはじまります。タルトゥ大学が設立されたのもちょうどこの頃、1632年スウェーデン王グスタフ・アドルフによってです。

エストニアはその後、1918年に初めての独立を手にします。しかし、喜びもつかの間、1940年、ソ連軍の侵攻、傀儡政権の設立により独立は再び失われ、半世紀に及ぶソ連の占領を経験しました。1988年、ソ連ゴルバチョフ書記長の政策により独立の機運が高まったエストニアでは、首都タリンで集会が開かれ、30万人もの人が独立を求めて大合唱をしたと書かれています。これは"Singing Revolution"といわれ、現在も5年に一度、首都タリンで合唱祭が開かれています。
エストニアの苦難の歴史に興味を持ち、ついつい大学の本屋でエストニアの歴史について書かれた本、"Estonia's Way"(Mart Laar)を買ってしまいました。本の序章で、「自由を求めて闘ったことのない国は決して自由になれない」という一節があります。他国からの侵略のない島国に生まれ、平和ボケした日本人と、常に他国の侵略に脅かされながらも逞しく、しぶとく生き抜き、独立を勝ち取ったエストニア人。両者にとって「自由」であることとはどのような意味を持つのでしょうか?深く考えさせられる一節でした。

予想以上に多くのことを学べる博物館巡りは今後も続けていこうと思います。この街にはKGB監獄博物館なんてものもあるようなので、もっともっと勉強できそうです。
因みにトップの写真は、アイルランド人作家Oscar Wildeとエストニア人作家Eduard Wildeの会話風景を描いた像です。実際はこの二人、面識はないらしいですが(笑)後ろに写った建物はかつての印刷所で、作家のPeter Ernst Wildeによって建てられました。Wilde押しすぎですね。この像のレプリカがアイルランドのGalwayという街にも寄贈されているようです。

2009年9月1日火曜日

歓迎パーティー

昨日ブログを書いた後、タルトゥ大学主催のレセプションパーティーがあったので少し報告いたします。

パーティーの存在を全く知らなかったのですが、ルームメイトに誘われ夕食を作る手間も省けるということで、いざパーティー会場のタルトゥ大学歴史博物館へ。

ホールに入るとワイングラスを持ったウェイターがお出迎え。シャンデリアの下でワイン片手に留学生とおしゃべり。早稲田のたちの悪い飲み会の慣習が多少なりとも身に付いてしまっている僕は、どうしてもワインを一気飲みしようとしてしまいます(笑)

パーティーでは新たに友人ができました。国名を挙げると、コソヴォ、メキシコ、グアテマラ、エジプト、台湾。ここエストニアでは皆マイノリティー軍団です。コソヴォとグアテマラからの留学生がいるなんて思ってもいませんした!人との出会いというのは本当にいろんなところに転がっているものですね。母親がよく僕に言っていた「本を捨て、街へ出よ」という諺を思い出しました。

グアテマラとメキシコからの留学生は同じフラットに住んでいるらしいので、そのうちラテン・パーティーに誘ってくれるようです。テキーラも振舞うとか言ってました。

僕の住居ははRaatuse 22という学生寮で、留学生は基本的に4階に集められているようなのですが、僕はなぜか5階。5階には、医学部生、修士号や博士号を目指す学生など勉強で忙しい人が多く、毎夜毎夜パーティーを開く4階の留学生フロアと違って平和な環境が維持されています。自分にとっても勉強に集中できるのはいいことだけど、バカ騒ぎして楽しむ機会が減ってしまうのも少し残念です。