先週末に行って来たエストニア北東部の旅について少々書きたいと思います。
最初の目的地はエストニア最大の湖"Peipsi järv"。ロシアとの国境にあり、1242年にドイツ騎士団とロシアのアレクサンドル・ネフスキー率いるノブゴロド公国軍が氷上の湖の上で戦った場所でもあります。湖畔の街Mustveeは、ロシア正教の支配を嫌ってロシアから逃亡した"Old Believers"が住む街でもあり、街中には彼らの教会も残っています。
次の目的地は"Kuremäe klooster (クレマエ修道院)"。エストニアで唯一のロシア正教女子修道院で、100人余りの修道女が現在も活動を続けています。2日間の旅を通してほとんどどんよりした曇り空でしたが、この時だけ青空が見えて綺麗な写真も撮れました。
道中、ソ連時代に建設された原子力発電所の廃墟にも立ち寄りました。この発電所自体は建設途中に放棄されたらしいのですが、これ以外にも工場の煙突、廃墟と化した工場、鉱山などを目にしました。エストニア北東部はソ連による占領期間に産業の中心として発展した地域であり、ソ連がエストニアに残していった"遺産"というものを直に感じました。さらに、昼食を取ったJõhviという街からはほとんどの人がロシア語話者。街の標識はすべてエストニア語で書かれているのにエストニア語を話す人がほとんどいないのです。Narvaの人口の95%がロシア人ということは知っていたのですが、実際にはエストニア北東部全体がロシア人に占領されているといった印象を受けました。
Narvaに到着したのは4時過ぎ。街の入り口前の道路にはロシアへの入国を待つ大量の大型トラックが列をなし、ひとたび街に入れば目に映るものは完全に同じ外見の集合住宅、煙草を吸う少年、昼間からビール瓶を片手に歩く男、正にロシアに対するネガティブなイメージそのままがそこにはありました。ロシアとエストニアの間を流れるNarva川の両岸には13世紀にデンマークによって建設されたNarva城とロシア側のIvangorod城が睨み合っていて、この地が歴史上デンマークやドイツ騎士団、スウェーデンとロシアの国境として重要な土地であったことが感じられます。両軍の兵士が砦の上で睨み合う、そんな場面が頭の中に浮かんでくるような、歴史的な重みがヒシヒシと心に伝わってきます。余談ですが、川沿いを歩いている途中、丘の上でこちらに手を振っているロシア人の子供たちに出会いました。話してみると、中学・高校生ぐらいの年頃で、日本のアニメが大好きで、日本人と初めて交流して興奮してるらしい。パソコンのアドレスを教えたので、その内メールなりfacebookで連絡してくることでしょう。改めて日本のアニメ文化がどれだけ世界中に知られているかを認識させらるとともに、一つの文化を通して異なる国籍の人たちが仲良くなれるという素晴らしい経験にもなりました。
2日目は再びNarvaを訪れ、Narva城内部の博物館や展望台を見学し、次の目的地"Valaste waterfall"へ。エストニアで最も落差の大きい滝で(30.5m)、流れ落ちた水はフィンランド湾へと注ぎます。Narvaで空を覆っていた分厚い雲も消え去り、道中目にしてきたソビエト時代の負の遺産を忘れさせるほどの、青い空と白い雲、広大なフィンランド湾と紅葉した木々の美しいコントラストを満喫しました。
その後、Kohtla-Järveという街の放棄された工場や、路線、鉱山などを見学し、最後は人の手で作られた"tech-hill"に登りました。丘と言っても30m程度しかありません。頂上から見える景色と言えば、延々と広がる野原と森林のみで、隆起した土地というものが全く見当たらない。これがエストニアの、延いてはロシア周辺部の特徴的な地形なのでしょう。まぁ、自転車で旅するのにはこれ以上ない土地ですが(笑)
こんな感じで旅も終わり、日曜日の夜にTartuへ帰って来ました。今回の旅で一番印象深いことはやはりロシアの影響の大きさですね。繰り返し書いて来ましたが、たくさんの工場、集合住宅、ロシア人。自分がいまエストニアいるとは到底思えない、それほどまでにロシア(ソ連)が残していったものの大きさを感じ、学んだ旅でした。言い方が適切ではないですが、自国の一部が他国の民族に支配されているようなこの状況を、エストニア人はどのように感じているのでしょうか?半世紀に渡ってソ連の支配を耐え忍びようやく手に入れた独立国家の中に、その敵国の住民が占領している街がある。Narvaという街、そしてエストニア北東部全体が、エストニアという小国の20世紀における悲劇的な歴史を象徴しているように思われました。
以上、エストニア北東部への旅でした。もっと書きたいことがありますがこの辺でやめときます。