2009年8月31日月曜日

新学期


今日から秋学期が始まりました。授業登録の締め切りは9/14日で、学期開始からの2週間は自由に登録・キャンセルができるお試し期間のようなものです。

今日は、Migration Officeに行って在留許可の申請をしてきました。将来エストニアに留学する人のために申請に必要な書類や手続きについて書いておきましょう。

1). certificate of legal income(財政証明書類)-両親の過去6か月間の収入額、収入源を証明する書類。僕の場合は英文で書類が手に入らなかったので自分で日本語の横に英語の翻訳を書く手間をかけたのですが、日本の銀行口座の預金残高証明書を提出しただけでOKでした。早稲田大学からの交換留学生は月額2500EEKの奨学金が給付されるので、a proof of receiving stipend(奨学金受給証明書)も提出が義務付けられます(International Student Officeで発行してもらえる)。

2). insurance contract(保険証書)-エストニアは保険について厳しいルールがあるようなので、エストニア入国後"ERGO"という保険会社で保険契約を結ぶ必要があります。渡航前に海外保険を結んでも有効な書類として受領されません。早稲田で契約させられた海外旅行保険も当然役立たずです。

3). identity document(身分証明書)-パスポートでOK

4). colored photo(カラー証明写真)-サイズは40mm×50mm。Migration Officeで無料で撮ることができます。僕はせっかく日本で撮って綺麗に切って糊で貼り付けて提出したら、機械でスキャンできないとかでバリバリ剥がされ、取り直しさせられました。

5). official invitation-エストニアの教育機関に在学していることを証明する書類。到着後、International Student Officeで発行してもらえる。

6). letter of guarantee-上記で説明したERGOでの保険契約の証書を得るのには数週間から長くて1ヶ月ほどかかります。在留許可の申請には9月の最初の2週間以内に行かなければならないので、保険証書はまだ手元にありません。その時、エストニア国内で有効な保険に契約することを誓約する書類がこのletter of guaranteeです。保険証書を手に入れたらMigration Officeにコピーを提出しなければなりません。

7). state fee-在留許可の申請料金みたいなものです。1000EEk。

その後、Swed Bankというバルト海地方の銀行で口座を開きました。早稲田からの留学生は奨学金を口座に振り込んでもらうために必ず現地で口座を開設しなければなりません。手続きはいたって簡単で書類を1枚記入するだけ。全て無料です。口座はその場ですぐに開けるわけではなく、最大で5日かかるようです。銀行から口座開設を通知するメールが届くので、銀行で口座番号を確認してInternational Student Officeに口座番号を伝えましょう。

どうでもいい事務手続きに長々とスペースを割いてしまいましたが、授業も明日から出し、まぁいいか。
ちなみに上の写真は街のシンボル「キスの噴水」と旧市庁舎の夜景です。本当にきれいでロマンチックですよ。ぜひタルトゥに来てみてください。

2009年8月26日水曜日

整理

今日から3日間、留学生向けのオリエンテーションが始まり、ようやく新学期に向けた準備が本格化してきました。
でもオリエンテーションや新たな友人のことについて書く前に、渡航前に自分が思い描いていた、というか心酔しきってたマイノリティー精神というものとエストニアでの現実を一度文章に書こうと思います。この1週間で混乱した心と新たに得た考え方を整理した方が、きっと今後の生活のためになるだろうなと思います。

僕にマイノリティー精神の種を植え付けたのは、昨年の8月、早稲田大学の短期留学プログラムで行ったカナダのユーコン準州での経験と出逢いにあると思います。グリズリー、ヘラジカなどの生息するカナダの原野で、食糧、調理器具、テント、寝袋、衣服など総重量20kgのザックを担いで1週間アウトドアリーダーシップ研修を受けました。その経験自体は僕の登山への興味を掻き立てたのですが、むしろそこで出逢った人々の生き方に精神的に大きな影響を受けました。単身ユーコンを訪れ、この地で14年もの歳月をすごす日本人のヨシさんは、アラスカへ行きたいという夢を求めて日本を飛び出し、今では立派なユーコンの住人として流暢な英語で現地の人とアウトドアライフを満喫していました。早稲田大学OBで、この留学プログラムに1日だけ参加してくれたカヌーイストの野田知佑さんは、自然で遊ぶことを心から楽しんでいて、何か社会に対する反抗心みたいなものをプンプン匂わせていた。一人でユーコン川を漂流し、先住民との交流や、グリズリーに追いかけられた話など、僕の冒険心を掻き立てた。インストラクターとしてプログラムに参加したアメリカ人のジェイクはイラク戦争での従軍経験を持つ。戦争の現実を目の当たりにして軍隊を離れ、何かを求めて自然に立ち向かっている。若干24歳にして、大自然の中で逞しく生きていく威風堂々としたその姿は、都会の生ぬるい環境に生きる自分には絶対手に入れることのできない何かを発していた。

少し話が長くなったが、彼らの考え方、生き方に大きく心を揺さぶられた僕は、日本に帰ってからも映画"Into the Wild"を観て、小説「荒野へ」も読んでどんどんこっちの世界に傾倒していった。まぁ、自分だけじゃなく若い人にはよくあると思うけど、心を揺さぶられる経験や出会いを持つと、その人の考え方や行動を真似たくなる。自分も次第に何かに付けて反抗的になっていったし、大学や組織というものが嫌いになっていった。周りの人と同じことをすることに嫌気が差し、もちろん人それぞれの理由があることは分かっているが、周りの人と行動を合わせる人を軽蔑していた。エストニアを留学先に選んだのも、誰も選ばないから、以外には何も理由がない。たくさんの学生が行くアメリカ、イギリスなどには絶対行きたくなかった。こんな考え方の自分が馬鹿らしくもあったが、同時に誇らしくもあった気がする。

僕の大好きなロックバンドGreen Dayの"Minority"と"Castaway"という歌はこの価値観を強烈に後押しした。"Minority"は「少数者」、"Castaway"は「漂流者」という意味で、当時の自分の心境にぴったりの歌だ。多くの人が、言語の壁や、少数のアジア人として事件に巻き込まれる可能性など心配してくれたが、独りでもやっていけると信じ切っていた。

だがエストニアに来てみれば、もう徹底的に打ちのめされた。完全に自信を失った。ちょっと前のブログにも書いた、マイノリティーになることの裏の意味を(いやむしろこの意味でのマイノリティーが表側なんだろうけど)軽視していたことによる孤独感。夜寝ている時は幸せで、朝起きると1日が始まるのが嫌でしょうがなかった。自分には、"Castaway"で歌われているような、未知らぬ地で一人だけで生きていくような逞しさも、知恵も、忍耐も何にもなかったということが良く分かった。自分が恥ずかしくなった。

Castaway - going at it alone(漂流者 一人で進むしかない)
Castaway - now I'm on my own(漂流者 自分一人なんだ)

I want to be the minority.(僕はマイノリティーになりたい)
I don't need your authority.(君の権威なんかいらない)
Down with the moral majority.(道徳上のマジョリティーに反対だ)
'Cause I want to be the minority.(僕はマイノリティーになりたいんだ)

あれだけ聞いていた詩に感動しなくなった.....

でも、独力で生きていく以上に素晴らしい生き方も見つかった。家族、友人、現地の人や大学の関係者、様々な人に支えられ助けられて生きていく。昔の自分なら、この価値観の変化を単に「敗北」としか見なさなかっただろうし、そういう風に捉える人もいると思う。でも、そんなのどうでもいい。支えてくれる人の優しさに気付けたことが何よりも重要だ。

独力で生きている人はやはり素晴らしいし尊敬するけど、どんなに弱く頼り無くても、自分を支えてくれている人がいることに気付き、その人たちに感謝できる人、そういう生き方をする人の方が、今の自分には魅力的に映る。

愛読書のひとつ「荒野へ」の主人公クリスは、アラスカの荒野で一人誰にも気付かれず死んで行く間際、日記にこうのような一節を残している。

"幸せは誰かと分かち合ったときに本物になる..."

長くなったけど、これからはこの気持ちを大切にして生きていこうと思います。

自分の心情を綴っても読んでくれる人は「こいつ何言ってるの」って思うだろうから、明日からはなるべくタルトゥや大学のことについて書ければと思います。

2009年8月24日月曜日

優しさ


今日、寮のルームメイトがやって来ました。

名前はTuomas君でフィンランドからの留学生です。


フィンランドは教育水準の高いことで有名ですから、いろいろと学べることが多そうです。フィンランドの教育がどのようなものかは良く知りませんが、少なくとも日本人のような型にはまった教育は受けてきてはいないでしょう。物事の見方・考え方が斬新であったり、非常に柔軟な思考力を備えているんでしょう。今日はお父さんとホテル泊まりらしいから明日以降たくさん話せるといいな。


こちらについてやっと生活も落ち着いてきて、身の回りの生活必需品も揃え、自炊もできるようになってきました。スーパーに行くと商品は全てエストニア語で書かれているから、今まで親元で暮らしてきた甘ちゃんの自分には何が何なのかさっぱりでしたが、最近は買い物に行く前に必要な商品や食材を辞書で調べてメモに取る作業を怠らないようにしています。レシートですら教材になります。「品名」「数」「合計」「お釣り」といった単語を調べ確実に語彙を増やしていっています。1年後には英語、エストニア語両方とも生活には困らない程ペラペラに喋れるようになるよう努力しなければ。


英語もろくにしゃべれないまま非英語圏に来てしまった自分。マイノリティーになりたいとか、誰にもできない経験がしたいとか、そういった類の考え方に浮かれて、言葉の壁や文化の違いといった面への認識が完全に甘かった。どんな障害も乗り越えていけると思っていたけど、いざぶち当たってみると予想外に壁は高く厚い。ただ単に自分が弱いからそう感じるのかもしれないが。
最初の数日は現実の前に絶望していたけど、頻繁に連絡してくれる家族のアドバイスや、渡航前に色紙を書いてくれたGAFSの皆さんの厳しくも温かいメッセージが自分を寸前のところで引きとめ、奮い立たせてくれた。


まだ1週間もたってないのに留学生活で何を得たかを言うのは早すぎるけど、家族や友人の「優しさ」というものをこれほどまでにありがたいと思ったことは今までなかった。これから1年間、大学が始まればもっと厳しいことも経験するだろうし、言葉の壁に再びぶち当たるだろうけど、それでも、自分を支えてくれる人がいつもそばにいてくれる、と分かったことは本当に大きなことだ。最終的に壁を乗り越えていくのは自分の意思の強さと行動力だけど、それを支えてくれる人がいなかったら自分はどうなっていただろうか...


また一つ、自分の人生に大きな財産が増えました。

2009年8月23日日曜日

Tartu







今日は、僕が住んでいる街、タルトゥについて少し紹介しようと思います。


タルトゥはエストニア第2の都市で、人口10万人。街にはエストニアで最も優秀な学生が集まるタルトゥ大学があります。この大学の創始者は、スウェーデン王グスタフ2世アドルフ。世界史を勉強したことのある方なら覚えていると思いますが、1618年~1648年に起こった三十年戦争の主要人物、「北方の獅子」と呼ばれたあのグスタフ・アドルフだそうです。
10万人の人口の約5分の1が学生や教授など大学関係者で、若者の多い大学街として賑わいを見せています。

400年近い歴史を持つこの大学で勉強するんだと思うと、身が引き締まります。少なくともW大学の時と同じ姿勢でいてはすぐに置いていかれるでしょうね(笑)


街の中心地ラエコヤ広場には、旧市庁舎とこの街のシンボル「キスの噴水」があります。天気のいい日はみんなこの広場のテラスで昼食を取っています。


日本と比べればどの国もそう見えるかもしれませんが、タルトゥでは時間がゆっくりと流れていきます。日本のように経済やサービスの発達した国ではないから、人々は仕事に追われることもなく、皆のんびりと一日を過ごしています。

2009年8月22日土曜日

エストニアより




こんにちは。




18日にエストニアに到着していたのですが、エストニアでの生活環境に完全に打ちのめされブログを書く気になれない状況でした。。。




まず、日本人にとってエストニアは寒い。まだ8月だというのに風が冷たく、朝は2~3枚着こまないと寒いです。僕は日中もそんな格好ですが、たいていのエストニア人は半袖で街中を歩いています。空気は乾燥していて気温も20℃ぐらいなので汗をかくこともなく非常に過ごしやすい気候です。




空港到着後の19日には、タルトゥ大学で1年間チューターとしてお世話しくれるPilleさんと初顔合わせし、3時間ほどエストニアのの首都タリンの旧市街の観光に連れて行ってもらいました。中世の町並みが綺麗に保存されていて、下を見れば石畳の道が延び、3階建ての建物が整然と並び、色鮮やかで、本当に中世ヨーロッパの時代に居るような気分になれるところです。


街を歩いていて感じたことは、アジア人が全くいないこと!!歩いていると回りの視線をすごい強く感じます。その後、バスで大学のある街タルトゥへ移動したのですが、バスターミナルとバスの中いずれもアジア人は自分一人で回りの注目を集めていたような気がします。隣の人も珍しそうにこちらをチラチラ眺めていました。


タリンからタルトゥまでは2時間半ほどかかったが、その間景色はというと何もない。ただただ、草原と畑と森林が永遠に続き、起伏も何もなかった。


タリンは観光地も豊富で観光客で賑わっているため多少アジアからの旅行客も散見されたが、エストニアの精神的首都と呼ばれるタルトゥには全くアジア人がいない。バスから降り、スーツケースをガラガラ引きながら歩いていると必然的に注目を集める。


エストニアに行きたい、マイノリティになりたいと夢を描いていた渡航前の自分と、エストニアに来てみた後の生活の現実を考えると、一つ大きな思い違いをしていたようだ。


マイノリティになるということには2重の意味があった。一つは日本人から解放されること。留学先にアメリカやイギリスを選んで常に回りに日本人がいるという環境を避けたかった。この考えに完全に陶酔していた自分は、もう一つの重大な意味を見過ごしていた。あるいは分かっていても考えようとしなかった。それは、エストニアという国の中でマイノリティになること。


つまり、日本人の社会から飛び出すことで自分はマイノリティになれる。しかし、人は社会から外れて生きていけない。まして自分は勉強のためにエストニアに来たのだから。そうしてエストニアの社会に入ることでも自分は超少数のアジア人というマイノリティになった。


前者の意味でのマイノリティは喜びを伴うが、後者の意味でのマイノリティは孤独で寂しい。


言葉が通じないことよりも何よりも、孤独であることがこんなにも寂しいことなのかと痛感した。


だが、自分の選択はもう覆らないし、これから1年間辛くても逃げずに生きていかなければ、ここまで来た意味がなくなる。覚悟を決めて頑張っていこう。

2009年8月7日金曜日

初ブログ


日本人には馴染みのないエストニアでの留学生活を通して、エストニアという国を紹介しようと思って作ったブログですが、最初の話題は趣味の登山となってしまいました(笑)


明日8日から、かねてから計画していた福島県、新潟県、山形県に跨る飯豊山地へ山中3泊の山旅に行ってきます。


テント、寝袋、食糧などが詰まったバックパックは計ってみたら18kgありました。


昨年、早稲田大学の留学プログラムで行ったユーコンでは、バックパックの重さが20kgぐらいだったから、ユーコンの時のような苦しい苦しい旅になるのでしょう、、、


が、苦しい思いをして登った人だけが味わえる山頂からの展望も楽しみでしょうがないです。


ただ、僕の場合は山頂からの景色というよりも、自然の中にいることそれ自体が幸せなひと時ですが、、、


12日に下山予定なので、帰ってきたら写真をたくさん掲載します。


それでは、行ってきます!