2010年3月9日火曜日

Kahekümneaastane

はぁ~、とうとう二十歳になってしまった。

数日前までは「日本に帰りたい病」に苛まれていたが、20代の大台に乗ってしまった今は、「10代に帰りたい病」が心の中で暴れている。

2度と戻らない、あの青春の日。

例えそうであっても、青春の「火」だけは心に絶やさず灯しておこう。

いくつになっても、純真な冒険心を忘れずに。

2010年3月6日土曜日

Jaapani öö


春が来たと思ったら、また寒くなる。

一度解けだした雪が再び凍って道はグチャグチャのデコボコ。そんな3月の頭に、スロヴェニア人の友人の依頼により、地元NGO団体 "Domus Dorpatensis" の文化イベント "Meet the World: Countries from inside and outside" にゲストスピーカーとして参加する機会を頂いた。

今回のイベントは、焦点を日本に当て、タルトゥ在住の日本人と日本在住・留学経験のあるエストニア人の2人をゲストとして招き、インタビューを通して日本という国を内外の視点から議論・理解していこうという目的。タルトゥ在住の日本人交換留学生は今のところ自分だけのようなので今回招集されることに相成りました。もう一人のエストニア人は、僕の友人で日本格闘技を習い、現在タルトゥで日本文化の普及に貢献している Reedik さん。

人前で何かを話すのは苦手なチキンハートだから、当日に50人近くの聴衆を目の当たりにした時はちょっと凍った。大学生に限らず、50,60代のおじいちゃん、おばあちゃん達までもが会場の小さなセミナールームに集まり、「エストニアの頭脳」と呼ばれるこの街の住民の学習意識に感心しつつ、日本という国がこれほどまでに人々の関心を集める国なんだなと改めて実感した。

肝心のイベントの方はと言うと、僕の方は、「エストニアを留学先として選んだ理由は?」「日本の大学は難しいと聞くけど、大学・学生全般の実態は?」などの質問や、「敬語」「お辞儀」など日本独特の文化、カラオケ、ゲーム機、ハイテクトイレなど、日本のモダンな文化について、退屈にならないように時折ジョークを交えつつ、拙い英語でなんとか説明する事が出来た。特に、日本の大学生のサークル活動や、高校の部活動、消臭や便座を温める機能の付いた日本のトイレの話では皆興味深そうに聞いていた(そして笑いも取れた)。Reedik さんの方は、やはり空手や柔道などの格闘技を中心に話してくれて、僕はそっちの世界については全く分からないから聞いていて学ぶ事もあった。

企画的には、予測をはるかに超える数の聴衆を集めた事、参加してくれた友人皆が面白かったと言ってくれた事など、イベントが成功してくれて嬉しい限りだ。個人的には自分の身の回りの事以外日本について上手に説明できない自分の無知さに恥ずかしい限りだが、たぶん参加者にとってはインターネットで手に入るような情報とは違う生の体験・意見を聞く事が出来てとても貴重な時間になったと思う、というかなってくれていれば嬉しい。

成功・不成功に限らず、今回の経験で日本の文化、学生の生活、礼儀・作法などを紹介することに大きな楽しみを見出すことが出来た。エストニア語の勉強は楽しいけど、大学での授業ばかりの生活に虚しさを感じ始めていたこの頃だったから、冬の部屋の空気を入れ替えるように、息の詰まるような重たい気持ちが新鮮な風に押し流され、今僕の心はあらゆる種類の意欲で溢れ返っている。

2010年2月27日土曜日

Kevad tuleb.

春はもうすぐそこに。

最近、散歩していると街の様子に微妙な変化がある。

雪が少なくなっている。何も考えずに歩いていたら気付かない程度ではあるが、道路脇に積み上げられた雪がここ4,5日の間に徐々に消えていってる。

今の気温はたったの0度。外に出たらなんと「雨」が降っていた。週間予報を見ても、この先下がってマイナス5度程度。

あと2日で3月。春の足音はここタルトゥにも確実に近付いている。日本人の心の花、「桜」は今年はお預けだろうか?

雪解けの季節。今日、ルームメイトが部屋を去っていた事で、彼に対していろいろとストレスを抱えていた僕の心の緊張もようやく解け始める。

3月と言えば、僕の誕生日。地元NGO主宰の、日本文化についてのディスカッション、エストニア・ラトヴィア国境にまたがる街 Valga の学校訪問など、イベント目白押しの3月。

僕の人生が始まった月だけあって、新しい物事の始まりや新たな人の出逢いに胸をふくらます。

でも、桜が見れないのは堪える。『あ~、日本に帰りたい。』

2010年2月25日木曜日

Taevas


ずいぶん前に「寄り道」がなんだのと書いた事があるが、時期が12月頃だっただけに授業終わるころには外は暗闇で結局街を散策できてはいなかったんだけど、冬至から2カ月が経ち、太陽が地平線の上に顔を出している時間もだいぶ長くなってきたので、再び寄り道帰宅を始めることにする。

今日は道中何か特別なことを見つけることはなかったが、冬の青空に伸びる幾筋もの雲がとても綺麗な1日だった。
こういう何もない1日でも、空が綺麗なだけで充実した気分になる。

2010年2月24日水曜日

Eesti Vabariigi aastapäev


今日、2月24日はエストニア共和国の独立記念日。


久しぶりに朝早く起きたので午前中2時間ほど街を散歩して回ったが、大学や市の建物、一般の民家にも、青・黒・白のエストニア国旗が掲げられていた。

近頃は気温もマイナス5度~8度ほどにまで下がってきて、マイナス20度以下を毎日のように体感した1月に比べれば屁でもない。いま、日本の気候はどうなのだろう。おそらくもう春の陽気に包まれていることだろう。

そういえば、ちょうど1週間前でエストニアに渡ってきて半年になる。新たな友人が出来るたびに繰り返される「何でエストニア来たの?」という質問に答えながら、この北の地へ辿り着いた自分の決断がいかに捻くれていたか、今さらながらに思い返してみる。

「日本人がいないから」。ただそれだけの理由。そんなこと言ってる割に、ここ2カ月全く日本語を話す機会が無い事を嘆いている自分を反省しつつも、やはり、怖いもの知らずで、というより無謀にもエストニアを留学先とした自分の決断は間違ってなかったと思う。

エストニアを南米の国だと思っていた友人がいたように、エストニアの認知度は低い。自分もエストニアは旧ソ連圏という事もあってロシアの様な国だと思い込んでいたし、ほとんどの日本人がバルト3国を一括りにして考えていると思うが、実際のところ、言語も部族も、文化も、国民性もそれぞれ異なる。

そんな未知の世界に飛び込んでみて、彼らの辛く暗い歴史に触れ、魔法のように美しい四季を目に焼き付け、歌を歌うように美しく響く言葉を毎日のように耳にし、それを学ぶ機会を得る、そんな経験ができていることに感謝するし、そんな経験をさせてくれるエストニアという地を素直に大好きになる。

そんな夢物語も残すところあと4カ月。2週間後には遂に10代捨てなければならない。

またも話の要点が分からなくなったが、とにかくこの国に居られる事の喜びを常に噛みしめて、1日1日前進していこう。

そんな考えが楽観志向で満たされた頭をふとよぎった、エストニア共和国92歳の誕生日でした。

2010年2月21日日曜日

Suusatamine

膝が痛いです。

今日、人生初めてスキーをしました(笑)

といっても、丘の無いエストニアでは(一応、南の方にちょこちょこあるが)スキーと言うとクロスカントリースキー。雪が斜めに吹き付ける悪天候の中、寮から徒歩20分ほどの"Tähtvere"という公園にて1時間ほどスキー靴と板をレンタル。

初めてだけど余裕だろと舐めてかかっていたが、スティックと板が引っ掛かって転ぶは、後ろに重心かけて転ぶは、スロープでスピード出し過ぎて転ぶは、転倒三昧。一緒に行った友人のほとんどがスキー初体験だったので、自分だけ恥ずかしい思いをする事はなかったのが救い。

エストニアに来て初めてまともな運動をしたから、もう疲労感た~っぷり。このままだと、半年後日本帰る時はボヨボヨになってるんじゃないかと心配だ。

スキーは大変だけど、やっぱスポーツするのは楽しいし、このまま素人のまま終わるのも癪なので、また挑戦しよう。

上の写真は街の中心を流れる、Emajõgi 川の上にて撮影(ただの道ではありません)。12月ごろから完全に凍っていて、川を歩いて渡ったり、スキーすることもできる。皇居の池に氷が張っただけでニュースになる東京とは大違い。これが雪国。

2010年2月12日金曜日

võõrkeeled

「日本に帰ってから役に立つの?」

必死にエストニア語を勉強している僕に向かってルームメイトが放った非情の一言。

将来エストニア語を使った仕事をするために勉強しているわけではなく、単純にこの留学期間、エストニアの文化・生活に溶け込みたいと思って勉強しているだけだから(エッセイを書かなくていいという理由が主)、そんな指摘は意にも介さないが、以外にもエストニア語がエストニア語を母語としない人の共通言語として役立ったことがあった。

エストニア語インテンシブコースにハンガリー人の女の子が3人いて、授業中ペアワークなどで話す事が多いのだが、昨日、授業前に英語で話しかけたところ "Ma ei oska inglise keelt.(英語話せません)" と返された。

これまでの経験でヨーロッパの人はみんな、特に教育を受けている若者は(ロシア人を除いて)みんな英語がある程度話せると思っていたから、軽い衝撃。

もちろん、第二外国語はもとより六年間学んできた英語すらまともに話せない日本人とは違って(僕もその一人でした)、彼女らはイタリア語・ドイツ語・ポーランド語などを第一外国語として選択してそれらの言語は完全に習得しているので、単に英語を選択しなかったというだけの話だが。

エストニア人の場合、大国ドイツ・ロシアに挟まれている関係で老年層はドイツ語・ロシア語のバイリンガルは当たり前、若年層も英語はもちろん、ドイツ語・ロシア語が話せる人が多いように思う。

エストニアの様に、個々人の言語習得意欲に関係なく、国の規模、歴史のために第二、第三外国語の習得が当然と考えられる国が存在するという事は新鮮に驚き。島国でない国々、特にヨーロッパのように狭い地域にたくさんの国がせめぎ合ってるような地において、歴史・地理が個人の学習・生活に与える影響を考える機会になった。半年もヨーロッパに住んでいて今さら驚いてブログに書くような事でもないけど。

そして何より強調しておきたかった事は、エストニア語が役に立った。